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2005年10月、北海道大学を初めて訪れた。
キャンパスのなかに小川が流れている。
大学構内を走る道路も広く長い。
高校時代、北大に進学することを望む人もそれなりにいたが、やはりこのキャンパスは大きな魅力だ。
興味深いのは、クラーク博士の大農経営構想をもとにつくられた重要文化財「第2農場」がそのままの形で保存されていること。
ここは北海道畜産の発祥の地でもあり、その建築様式も珍しい。
建物のなかには当時輸入され、その後普及した各種の農具も展示されていた。
日本の食糧自給率が40%を切り、今後世界的にも食糧危機が懸念される。
本当の学問は、こんな時代状況に対応することこそが問われているはずだ。
もし私が今、再び大学進学を志すとしたら、迷わず農学部を選択するだろう。
そんな思いで見学したことを覚えている。
2005年10月、札幌在住の友人夫妻の案内でお手軽な市内観光に出かけた。
まずは羊ケ丘展望台。
名前のとおり羊が放牧されているが、「Boys be ambitious! 」で有名なクラーク博士の銅像も建てられている。
札幌ドームが目の前に見え、札幌市街を一望できるロケーションだ。
続いて訪れたのは、真駒内滝野霊園内に設置されたストーンサークルを模したモニュメント。
展望台直下の駐車場まで車でのぼり、そこから徒歩で展望台へ行ける。
眼下に札幌市街を望めるなかなかのスポット。
そして一番印象的だったのは、この展望台へ向かう道路から見た色づきはじめた紅葉。
この日の夜は、友人夫妻と一緒にお勧めのジンギスカン料理を食べに出かけた。
地元では有名な店らしいが、これが実に美味かった。
学生の頃、新宿の飲み放題、食べ放題の焼き肉店でよく冷凍マトンを食べたが、その強烈な臭いだけが印象に残っていた。
ところが本場のジンギスカンはまったく臭みもなく、豚肉や牛肉よりも美味しい。
以降私は美味しいマトンが食べられる店を探すようになった。
土井ヶ浜遺跡の発見により、弥生時代における民族学と人類学的研究は飛躍的に進んだ。
発掘された人骨のなかには、胸から腰にかけて11本の石鏃と2本のサメの歯でつくった鏃の合計13本もの鏃がささった男性の人骨もある。
吉野ヶ里遺跡の首なし人骨と同様、弥生時代になって頻発した戦いによって死亡したのか、あるいはこの男性が貝輪を2本はめていたことから、シャーマンであったのに何らかの理由で殺されたのか、謎は解けていない。
また、鵜を抱いて埋葬された女性も発掘された。
弥生時代には、鳥は天上の神の国と地上の国との間をとりもつ使者であり、豊作をもたらす穀霊や、祖先の霊魂を運ぶものと信じられていた。
鵜を抱いて埋葬されたこの女性は、土井ヶ浜で唯一鉄製品を副葬されており、巫女的な人物と推定される。
何より興味深いのが、土井ヶ浜に共通する埋葬方法だ。
もっとも多いのが、あおむけに膝などをまげる仰臥屈葬で、ほとんどの頭は少し持ち上げるかたちで東南の方向に向けられている。
つまり、顔は西北の海の方を向くように埋葬されているのだ。
吉野ヶ里の弥生人と同様に、彼らが最も珍重した装飾品の一つは、沖縄や奄美諸島でしかとれなかったゴホウラ、イモガイといった大型巻貝を加工して作られた腕輪だ。
このゴホウラ、イモガイの貝輪は、北海道の有珠モシリ遺跡からも発掘されており、弥生時代にはすでに沖縄から九州、そして日本海側を通って北海道に至る海上の「貝の道」が存在したことを物語っている。
弥生時代には既に日本列島を縦断する2800キロの「貝の道」が存在した。
それに比すれば、九州北部や響灘から朝鮮半島は目と鼻の先。
吉野ヶ里や土井ヶ浜に眠っていた弥生人たちの多くは、明らかに朝鮮半島や中国大陸から渡ってきた人々なのだ。
だからこそ響灘の砂浜に埋葬された弥生人たちは、おしなべて朝鮮半島、大陸の方向に顔を向けて埋葬されていた。
自分達の故郷を憶いながら安らかに眠れるようにと、このような埋葬が行われていたのだろう。
土井ヶ浜のある響灘には、コバルトブルーの美しい海が広がっている。
晴れた日であれば、古代弥生人でなくても船を漕ぎ出さずにはいられないほど魅力的な海だ。
響灘から日本海を見て、何か遠い記憶が蘇ってくるような感覚のなかで、日本人のルーツの一つの流れが、海を隔てた彼方にあると実感できた。
2005年7月、吉野ヶ里遺跡を見学した翌日、土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムを訪れた。
土井ヶ浜遺跡は、山口県の北西部、日本海側に近い豊浦郡豊北町の響灘に面した砂丘で発見された推定約1万平方メートルにも及ぶ弥生時代の墓地遺跡。
1953年以来、11次以上にわたる調査で300体近い人骨が出土している。
1962年に国の史跡に指定され、1990年には遺跡の一部を覆う土井ヶ浜ドームが完成し、93年には出土遺物を収蔵する土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムが開館した。
このミュージアムの展示は、吉野ヶ里遺跡の展示館などとは比較にならないほど充実していて、吉野ヶ里がテーマパークだとすれば、こちらはミュージアムという名にふさわしい内容。
酸性土壌の日本では、土井ヶ浜のような砂丘や貝塚、洞穴に遺体を埋葬するか、あるいは吉野ヶ里のように甕棺などの容器に遺体を入れて、まわりの土に触れないようにしない限り、人骨は残らない。
土井ヶ浜遺跡では、墓地を厚く覆った砂のなかに、海岸から吹き飛ばされてきた貝粉が非常に多く含まれており、貝に含まれているカルシウムが長い年月の間に溶解し、骨に浸透したことによって、他の遺跡と比較しても骨が良く残っていることに特色がある。
そしてこの土井ヶ浜で発掘された人骨の分析などによって、山口県から九州にかけての地域には三つのタイプの弥生人が存在したことが分かっている。
第一のタイプが、吉野ヶ里や土井ヶ浜で発掘された「北部九州・山口」タイプで、顔の高さが高く(長く)、身長も高く、顔のホリが浅い扁平な顔つきの弥生人。
第二のタイプは長崎や熊本などから出土した「西北九州」タイプで、顔の高さは低く、横幅が広く、低身長で鼻が高く、ホリの深い弥生人。
そして第三のタイプは、鹿児島県南端や南西諸島から出土した「南九州・南西諸島」タイプで、「西北九州」タイプよりさらに「低・広顔」傾向が強く、著しい低身長の弥生人だ。
この三タイプのうち、「西北九州」と「南九州・南西諸島」タイプは、実はそれぞれの地域の縄文時代人の特徴を示したもので、縄文人の子孫だと考えられる。
そして「北部九州・山口」タイプこそが、大陸から渡来した弥生人かその子孫であることが判明している。
館内には、テレビ画面上に現れる顔つきや身長などに関する質問に選択肢で答えていくと、最後に縄文系か弥生系か、それとも縄文と弥生がどの程度ブレンドされているのかが判明するアトラクションも用意されていた。
吉野ヶ里遺跡では、これまでに弥生前期末から後期にかけての甕棺墓が約2,500基、土壙墓約330基、箱式石棺墓11基が発掘されている。
午前中に立ち寄った展示館では、吉野ヶ里の甕棺内から発掘された貝製腕輪、勾玉、管玉などの装身具や鉄製刀子、石剣の切先などを展示。
甕棺からは、300体以上の人骨も出土している。
とくに弥生中期の甕棺から発掘された人骨には、頭部の無いものや、12本もの矢を打ち込まれたものなど、明らかに戦闘による犠牲者と考えられるものが存在する。
こうした戦闘の犠牲者と思われる人骨は、弥生時代の初めから紀元前後の弥生中期までの約400年間で、九州地方を中心に100体以上発見されているのだ。
これら戦闘で犠牲となった人骨の存在は、縄文式採取社会から水田稲作が社会的生産の主軸となっていく、弥生前期から中期の弥生化のプロセスで、水や土地を巡って激しい争いが繰り広げられたことを示唆している。
だからこそ、吉野ヶ里遺跡のように、何重にも環壕を巡らせて厳重に防禦した集落が必要とされたのだ。
同時に、稲作によって生じた余剰生産物は階級社会を生み出し、王や支配層は祭祀を通じて統治を正当化し、司祭は最高の権威を有していた。
水や土地を巡る争いによって、小さな集落はより大きな集落へと吸収されたり、あるいはその支配下に置かれて、強大化した集落はムラからクニへと発展していったと想像できる。
弥生時代が、中国大陸や朝鮮半島から渡来した人々の文化的影響のなかでつくられたことは、今では周知の事実だ。
当初彼らは縄文系在来人のコミュニティーに入り込んで平和的に共存しながら、稲作や金属器、青銅器などの新しい文化を伝播させた。
渡来系弥生人と縄文系在来人が争った跡はあまりない。
しかし、稲作を生産の中心に据えた弥生化が進展し、海岸線平野部での水田開発が目一杯となり、それまで川の上流の山間部で採取生活を営んでいた縄文人たちにも弥生化の波が押し寄せていく。
このプロセスで、争いが激化していったと考えられている。
縄文人が平和的で、弥生人が好戦的というステレオタイプのイメージは、こうした経緯のなかで作り上げられたものでしかないので注意が必要だ。
ところで吉野ヶ里遺跡の発見は、邪馬台国論争で具体的な遺跡がみつかっていなかった九州説にとって強力な証拠となった。
「魏志倭人伝」では、「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」と、邪馬台国女王卑弥呼の住んでいた集落を表現している。
吉野ヶ里遺跡の発掘により、「魏志倭人伝」の記述通りの宮室・楼観・城柵を持った大規模環壕集落が、邪馬台国時代よりも100年以上前から九州北部に存在していたことが立証されたのだ。
しかも、吉野ヶ里は九州北部の弥生の集落の中でも、玄海灘沿岸の「都市」から比較すれば「田舎」の集落だった。
玄海灘沿岸部にはさらに整備された都市が存在していたわけで、これが邪馬台国となったのだとの説には、それなりに説得力がある。
吉野ヶ里遺跡のガイドに携わる、多くのボランティアや学芸員の人々は、邪馬台国が九州にあったのは当たり前だと考えているようだった。
「邪馬台国が畿内大和にあったというのは、大和朝廷から天皇制との関係で辻褄を合わせたいだけで、たいした根拠はないでしょう」と語る人もいた。
邪馬台国論争はさておき、弥生時代はまさに、中国大陸や朝鮮半島との人的・文化的な交流、渡来系弥生人によって創り出された。
吉野ヶ里遺跡からは、石製農工具・鉄製農工具・銅鏡・鋳型・布・絹など朝鮮半島・大陸との交流をしめす出土品が多数出ている。
北内郭の入口で見られた鍵形に折れ曲がった構造は、古代中国の城郭都市に多く見られたものだ。
さらに吉野ヶ里遺跡では、歴代の王が埋葬されている特別なお墓である北墳丘墓から順に、北内郭、南内郭、一般人の住む南のムラと、北から南に序列づけられた構造をしており、これも古代中国の影響を色濃く示している。
吉野ヶ里で発見された絹は、前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹で、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、それが最初に国外に出たことを確認できたのが北部九州なのである。
さらに中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているという解剖学的発見もある。
今でも芸能人には九州出身者が多いのも、歌舞音響などの文化が大陸から真っ先に九州へもたらされたことを物語っているのかもしれない。
まさに九州は大陸からの渡来人の玄関口であったのだろう。
いずれにしても、縄文人と渡来系弥生人は、争いながらも共存の道を選択していった。
だから日本人ほど多種多様な人種が混じり合っている民族はないとも言われる。
ちょっと歴史を振り返れば、日本は単一民族などというのが大嘘であることはすぐに分かる。
同時に、朝鮮や中国などの近隣諸国を人種的に敵視しすることの愚かさもよく分かるはずだ。
ほとんどの日本人は、渡来人のDNAをしっかりと受け継いでいるのである。
通常は歴史公園センターのある東側ゲートから足を踏み入れるところだが、西側のゲート、「倉と市」のゾーンから入場。
外壕から一歩中に足を踏み入れると、10棟近い高床倉庫が立ち並んでいる。
当時これら高床倉庫には様々な交易物が収められ、市では海外や他のクニと活発な交易が行われていたようだ。
高床倉庫の柱には、ねずみ返しも。
市の中心には2階建の市楼が建ち、そばには市を管理する「市長[いちおさ]」と呼ばれる人の竪穴式住居も復元されている。
この区域の中には、さらに大きな内壕と城柵によって囲まれた大倉が建ち並ぶ場所があり、この大倉には軍事上、戦略上重要な物資を収められていたのではないかと考えられている。
現在の吉野ヶ里は、有明海の海岸線から20キロも離れているが、弥生時代には2キロのところまで海岸線が迫っていたことが分かっている。
当時は、吉野ヶ里の西側、この倉と市のゾーンのそばを大きな川が流れており、有明海とこの川を伝って人々は行き交い、交易を行ったのだろう。
「倉と市」のゾーンから内壕・城柵を越えて東側に進むと、小高い場所に広場が。
ここは南内郭と呼ばれている場所で、吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラムラを治めていた王や支配層が住んでいた場所だ。
南内郭には、竪穴式住居と共に復元高12メートルにもなる4棟の高床建物がある。
南内閣の北端には、王が住んでいたと考えれる城柵で囲まれた竪穴住居があり、その脇には王の使用人たちが給仕のために煮炊きをした小屋も復元されていた。
この地区からは、当時としては極めて貴重な、一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品も数多く見つかっており、当時の支配層が住む高級住宅地だったことが伺われる。
南内郭を一端出て、展示室を見学した後に北へ向うと、いよいよ目の前に吉野ヶ里の祭祀の中心、北内郭が見えてくる。
この北内郭は、吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって、最も重要な場所であったと考えられている。
北内郭は二重の内環壕で囲まれ、入口は真っ直ぐ入ってこられないように鍵形に折れ曲がった構造をしている。
中には物見櫓はもちろん、高床住居や斎堂、東祭殿があり、吉野ヶ里最大の建物である主祭殿がひときわ威容を誇っている。
この主祭殿は、16本の柱によって支えられた約12.5メートル四方の3階建の建物。
主祭殿の2階では、人形を使って吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが再現されていた。
吉野ヶ里の王を中心に、一方の側には吉野ヶ里の支配層、片方の側には周辺のムラムラの長が座り、田植えや稲刈り、祭りや市の日取りなどの重要な事項を取り決めている様子が再現されている。
その上の3階では、最高司祭者が祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っている。
2階の合議ではまとまらない話も、この最高司祭者のお告げに従って決定したのだろう。
午前9時から見学しはじめて、既に時間は11時半を回った。
南国九州の強い日差しが眩しいが、湿度はそれほどなく、風は心地良い。
昼食をとるために北内郭から再び南内郭へと南下し、それから東口のレストランへと向かった。
吉野ヶ里遺跡の建物のシルエットの前方に広がる佐賀平野を見渡しながら、はるか1700年近く前の弥生人もまた、こんな心地良い風を感じていたのかなと思いをめぐらしたのだった。
弥生時代、人々はどのような生活をしていたのか?
弥生人とは、どのような人々だったのか?
日本人のルーツを辿ろうとすれば、弥生時代の検証を避けて通ることはできない。
2005年7月16日、九州・佐賀の吉野ヶ里遺跡を訪ねた。
午前9時前、吉野ケ里歴史公園西口の特設駐車場に到着。
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡三田川町・神埼町・東脊振村にまたがり、筑紫平野の中央部、脊振山地南麓の段丘上に位置する。
北側の脊振山地を越えれば玄海灘に抜け、南側に丘陵を下れば有明海に出る。
関西方面からは中国-山陽-九州-長崎の自動車道をつないで600キロを超える道のりだ。
吉野ヶ里では、戦前から多数の弥生土器や石器が見つかっていたが、1986年から工業団地造成のための発掘調査が行われた。
この調査で、旧石器時代から中世までの遺跡が次々と発見され全国的に注目を浴び、一転して国の特別史跡となった。
2001年4月には、117ヘクタールもの計画面積を持つ国営・県営吉野ヶ里歴史公園としてオープンし、年間40万人以上が訪れている。
3連休の初日、朝早くから親子連れが訪れるなか、熱気球に乗って吉野ヶ里遺跡を一望するサービスが行われ、順番待ちの人たちが並んでいた。
早速この列に加わり、熱気球に乗り込む。
梅雨明け直前の快晴の空の下、気球から眺める吉野ヶ里遺跡の全容は圧巻。
復元されているのは弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)の様子。
吉野ヶ里には、弥生時代前期の前3世紀ごろにまず約3haの環壕集落がつくられ、これが中期(前1世紀頃)後半には南北1km以上にもなる約40haの環壕集落へと拡大した。
復元されている弥生後期には、二重環壕、城柵、物見櫓などの防禦施設で守られ、南北内郭を有する「弥生都市」とも言うべき大環壕集落へと発展。
遺跡の西側に上がった気球から東側の遺跡方向を眺めると、総延長2.5キロにもなる外壕と城柵が左右に伸び、その後ろに高床倉庫群が見える。
その奥の小高い場所には内壕・城柵に囲まれた南内郭、はるか左手奥には同じく内壕・城柵に守られた北内郭が配置されている。
北内郭にそびえ建つ主祭殿は、古代アテネのパルテノン神殿のような風格で吉野ヶ里全体を見下ろしている。
目の前に広がる巨大な弥生テーマパークへの期待を胸に、いよいよ入口へと向かった。
7月に訪れた四万温泉。
そこを流れる四万川のすぐ上流には、四万川ダムがあった。
このダムは「開かれたダム」をコンセプトに建設されたらしく、周辺は公園として整備・開放されている。
それに加えてダムの真下にも公園があり、そこから巨大な壁を見上げることもできる。
こんなダムは今まで見たことがないちょっと変わったスポットだ。
ここからわずか数十キロのところには、八ッ場ダム建設問題で揺れる川原湯温泉がある。
八ッ場ダム推進を叫ぶ人たちは、ダムを観光資源にできると考えているらしいが、渓谷の自然そのものがダム関連工事でズタズタに破壊されているなかで、八ッ場ダムが観光資源になるとは考えられない。
八ッ場よりもはるかに自然が残るこの四万川ダム。
熊出没に注意するよう看板もかけられていた。
しかしこのダムですら、観光資源と呼ぶにはあまりに無理がある。
30分ほど立ち寄るにはいいが、あくまでも観光のメインは風情ある四万温泉なのだ。
それからすれば、これ以上川原湯温泉周辺の自然破壊を止め、風情ある温泉街として復活することこそ、八ッ場ダムに代わる生活再建の道なのではないかと思わざるを得ない。
飛行機に乗る際には、必ず早めに座席指定をする。
翼の上を避けての後方窓側がお気に入りだ。
さらに羽田からの往復の際には、往き帰りでそれぞれ富士山が見える方向を陣取る。
冬は真っ白な雪に覆われて趣がある。
季節を問わずに特にお薦めなのは、夕刻時、羽田への着陸態勢に入る直前の景色だ。
関西方面からの場合、飛行機は徐々に高度を下げ、房総半島上空で大きく左に旋回する。
やはりどんな宝石も(もっとも私は宝石などのアクセサリー類には何の興味もないが)自然の美にはかなわない。
瀬戸内海に面する山口県上関町の四代田ノ浦に、中国電力は出力135万キロワット級の沸騰水型軽水炉2基を建設しようとしている。
この上関原発の建設に反対し、地元住民は予定地内の入会権の確認を求めて中国電力相手に裁判に訴えてきた。
1審では原告側の訴えを認めたが、2005年10月広島高裁でこの判決は覆った。
原告は上告したが、2008年4月14日最高裁は「入会権は既に失われた」として原告側上告を棄却。
この判決により、上関原発建設の動きは加速し、中国電力は予定地の埋め立て工事に今秋にも着手しようとしている。
私は2005年7月17日から18日にかけて、島ぐるみで上関原発に反対を続けている祝島を訪れた。
その1ヶ月程前、海域調査を阻止するために祝島漁協のすべての船が台船を取り囲む姿が全国にテレビ放映されたからだ。
7月17日午後4時、上関町室津から定期船「いわい」に乗り込んだ。
祝島まで1日3往復している70人乗りの小さな定期船には、クーラーボックスを抱えた釣客の姿も見えた。
上関、蒲井、四代の各港に寄りながら、船は長島の南東側を進む。
長島と天田島の間を抜けて瀬戸内海に出れば、もう目の前に祝島が見えてくる。
右手の原発建設予定地田ノ浦沖には、海域調査のための工事櫓が二基見えた。
瀬戸内海と言えば、赤潮などで汚染された「汚い海」というイメージがつきまとうが、祝島の周りに広がる海は素晴らしく美しい。
スナメリが群生し、かなりの頻度で目撃することが可能だそうだ。
室津から40分、田ノ浦沖からはわずか5分ほどで船は祝島の東の端にある港に到着。
島のほとんどの集落はこの港の周りに集中している。
続きを読む: 風情ある四万温泉 柏屋旅館の露天風呂と料理に大満足
いよいよ屋久島最終日。
この日も天候は晴れ。朝早く起き、いわさきホテルの部屋のテラスでコーヒーを飲みながら日の出を待つ。
太鼓岩から白谷雲水峡に戻り、沢沿いのベンチで昼食を摂った後、屋久島1周のドライブに出かけることにした。
山を下って宮之浦に戻り、そこから海岸線に沿って走る島の周遊道路を左回りにドライブ。
「もののけ姫の森」を通過してしばらく行くと、少しずつ森が開けていく。
ほどなく辻峠に到着。ここから左手の斜面を登り太鼓岩へ向かう。
10分ほど急斜面を登ると、突然目の前が開ける。太鼓岩の上に出たのだ。
続きを読む: 世界遺産屋久島ツアー3日目(2)太鼓岩から宮之浦岳を望む
屋久島3日目は白谷雲水峡へ。
午前4時半に「まんまる」を出発し、途中宮之浦の弁当屋さんで朝食と昼食を購入。前夜に電話予約していた。
屋久島ツアー2日目は、太忠岳登山にした。
安房から車で30分ほど山に入ったヤクスギランド。
宮之浦岳に向かう淀川登山口はさらに山奥にあるが、太忠岳登山口はこのヤクスギランドの周遊コースの途中にある。
2007年10月21日(日)から24日(水)までの4日間、世界遺産屋久島へ旅した。
わずか4日間だったが、1週間ぐらい滞在した気にさせられた島だ。
それだけ時間の流れがゆっくりしているからだろう。
続きを読む: 世界遺産屋久島ツアー1日目 地元焼酎「三岳」は美味かった
先日訪れた世界遺産の五箇山合掌造り集落。
東海北陸道の五箇山インターのすぐそばには菅沼集落があったが、そこから車で15分ほどの場所にも、同じく世界遺産に登録された相倉集落がある。
続きを読む: 世界遺産 富山県南砺市五箇山の相倉合掌造り集落
先週末に世界遺産に登録された富山県五箇山の合掌造り集落を訪れた。
まずは東海北陸道の五箇山インターを降りてすぐの菅沼集落へ。
続きを読む: 世界遺産の合掌造り 富山県南砺市の五箇山菅沼集落

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