日本人のルーツを辿る 吉野ヶ里−土井ヶ浜遺跡探訪


弥生時代、人々はどのような生活をしていたのか? 弥生人とは、どのような人々だったのか?

日本人のルーツを辿ろうとすれば、弥生時代の検証を避けて通ることはできません。
2005年7月16日から17日にかけて、九州・佐賀の吉野ヶ里遺跡、山口県の土井ヶ浜遺跡を中心に、
弥生時代を探求するフィールド・ワークを行いました。

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(PDFファイル 1.48MB)

(1)国内最大級の環壕集落


7月16日(土)午前9時前、吉野ケ里歴史公園西口の特設駐車場に到着。
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡三田川町・神埼町・東脊振村にまたがり、
筑紫平野の中央部、脊振山地南麓の段丘上に位置しています。

北側の脊振山地を越えれば玄海灘に抜け、南側に丘陵を下れば有明海に出る位置です。
関西方面からは中国−山陽−九州−長崎の自動車道をつないで600キロを超える道のりです。





吉野ヶ里では、戦前から多数の弥生土器や石器が見つかっていましたが、
1986年から工業団地造成のための発掘調査が行われました。

この調査で、旧石器時代から中世までの遺跡が次々と発見され全国的に注目を浴び、
一転して国の特別史跡となったのです。

2001年4月には、117ヘクタールもの計画面積を持つ国営・県営吉野ヶ里歴史公園としてオープンし、
年間40万人以上が訪れています。





3連休の初日、朝早くから親子連れが訪れるなか、
熱気球に乗って吉野ヶ里遺跡を一望するサービスが行われ、
順番待ちの人たちが並んでいます。
早速この列に加わり、熱気球に乗り込みました。梅雨明け直前の快晴の空の下、
気球から眺める吉野ヶ里遺跡の全容は圧巻です。

現在復元されているのは弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)の様子です。
吉野ヶ里には、弥生時代前期の前3世紀ごろにまず約3haの環壕集落がつくられ、
これが中期(前1世紀頃)後半には南北1km以上にもなる約40haの環壕集落へと拡大します。

復元されている弥生後期には、二重環壕、城柵、物見櫓などの防禦施設で守られ、
南北内郭を有する「弥生都市」とも言うべき大環壕集落へと発展していきました。





遺跡の西側に上がった気球から東側の遺跡方向を眺めると、
総延長2.5キロにもなる外壕と城柵が左右に伸び、その後ろに高床倉庫群が見えます

その奥の小高い場所には内壕・城柵に囲まれた南内郭、
はるか左手奥には同じく内壕・城柵に守られた北内郭が配置されています。

北内郭にそびえ建つ主祭殿は、古代アテネのパルテノン神殿のような風格で
吉野ヶ里全体を見下ろしているのです。

目の前に広がる巨大な弥生テーマパークへの期待を胸に、いよいよ入口へと向かいます。






(2)南北内郭は政治と祭りの中心


通常は歴史公園センターのある東側ゲートから足を踏み入れるところですが、
今回は西側のゲート、「倉と市」のゾーンから入場しました。

外壕から一歩中に足を踏み入れると、10棟近い高床倉庫が立ち並んでいます。
当時これら高床倉庫には様々な交易物が収められ、
市では海外や他のクニと活発な交易が行われていたようです。
高床倉庫の柱には、ねずみ返しもありました。





市の中心には2階建の市楼が建ち、
そばには市を管理する「市長[いちおさ]」と呼ばれる人の竪穴式住居も復元されています。

この区域の中には、さらに大きな内壕と城柵によって囲まれた大倉が建ち並ぶ場所があり、
この大倉には軍事上、戦略上重要な物資を収められていたのではないかと考えられています。

現在の吉野ヶ里は、有明海の海岸線から20キロも離れていますが、
弥生時代には2キロのところまで海岸線が迫っていたことが分かっています。
当時は、吉野ヶ里の西側、この倉と市のゾーンのそばを大きな川が流れており、
有明海とこの川を伝って人々は行き交い、交易を行ったのでしょう。





「倉と市」のゾーンから内壕・城柵を越えて東側に進むと、小高い場所に広場があります。
ここは南内郭と呼ばれている場所で、吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、
吉野ヶ里の集落を始め、周りのムラムラを治めていた王や支配層が住んでいた場所です。

南内郭には、竪穴式住居と共に復元高12メートルにもなる4棟の高床建物があります。
これは環壕の張り出した部分に対応するように建てられており、兵士が侵入者を見張る物見櫓だったのです。





南内閣の北端には、王が住んでいたと考えれる城柵で囲まれた竪穴住居があり、
その脇には王の使用人たちが給仕のために煮炊きをした小屋も復元されていました。

この地区からは、当時としては極めて貴重な、
一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品も数多く見つかっており、
当時の支配層が住む高級住宅地だったことが伺われます。





南内郭を一端出て、展示室を見学した後に北へ向うと、
いよいよ目の前に吉野ヶ里の祭祀の中心、北内郭が見えてきます。

この北内郭は、吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって、
最も重要な場所であったと考えられています。





北内郭は二重の内環壕で囲まれ、
入口は真っ直ぐ入ってこられないように鍵形に折れ曲がった構造をしています。

中には物見櫓はもちろん、高床住居や斎堂、東祭殿があり、
吉野ヶ里最大の建物である主祭殿がひときわ威容を誇っています。
この主祭殿は、16本の柱によって支えられた約12.5メートル四方の3階建の建物です。

主祭殿の2階では、人形を使って吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが再現されていました。
吉野ヶ里の王を中心に、一方の側には吉野ヶ里の支配層、
片方の側には周辺のムラムラの長が座り、
田植えや稲刈り、祭りや市の日取りなどの重要な事項を取り決めている様子が再現されているのです。





その上の3階では、最高司祭者が祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っています。
2階の合議ではまとまらない話も、この最高司祭者のお告げに従って決定したのでしょう。





午前9時から見学しはじめて、既に時間は11時半を回りました。
南国九州の強い日差しが眩しいですが、湿度はそれほどなく、風は心地良いです。
昼食をとるために北内郭から再び南内郭へと南下し、それから東口のレストランへと向かいました。

吉野ヶ里遺跡の建物のシルエットの前方に広がる佐賀平野を見渡しながら、
はるか1700年近く前の弥生人もまた、こんな心地良い風を感じていたのかなと思いをめぐらします。



(3)首のない人骨

吉野ヶ里遺跡では、これまでに弥生前期末から後期にかけての甕棺墓が約2,500基、
土壙墓約330基、箱式石棺墓11基が発掘されています。

午前中に立ち寄った展示館では、吉野ヶ里の甕棺内から発掘された貝製腕輪、
勾玉、管玉などの装身具や鉄製刀子、石剣の切先などを展示していました。

吉野ヶ里の甕棺からは、300体以上の人骨が出土しています。
とくに弥生中期の甕棺から発掘された人骨には、頭部の無いものや、
12本もの矢を打ち込まれたものなど、明らかに戦闘による犠牲者と考えられるものが存在します。

こうした戦闘の犠牲者と思われる人骨は、
弥生時代の初めから紀元前後の弥生中期までの約400年間で、
九州地方を中心に100体以上発見されているのです。





これら戦闘で犠牲となった人骨の存在は、
縄文式採取社会から水田稲作が社会的生産の主軸となっていく、
弥生前期から中期の弥生化のプロセスで、
水や土地を巡って激しい争いが繰り広げられたことを示唆しています。
だからこそ、吉野ヶ里遺跡のように、
何重にも環壕を巡らせて厳重に防禦した集落が必要とされたのです。

同時に、稲作によって生じた余剰生産物は階級社会を生み出し、
王や支配層は祭祀を通じて統治を正当化し、司祭は最高の権威を有していたのです。

水や土地を巡る争いによって、小さな集落はより大きな集落へと吸収されたり、
あるいはその支配下に置かれて、強大化した集落はムラからクニへと発展していったと想像できます。

弥生時代が、中国大陸や朝鮮半島から渡来した人々の
文化的影響のなかでつくられたことは、今では周知の事実です。
当初彼らは縄文系在来人のコミュニティーに入り込んで平和的に共存しながら、
稲作や金属器、青銅器などの新しい文化を伝播させました。
渡来系弥生人と縄文系在来人が争った跡はあまりないのです。

しかし、稲作を生産の中心に据えた弥生化が進展し、
海岸線平野部での水田開発が目一杯となり、
それまで川の上流の山間部で採取生活を営んでいた縄文人たちにも
弥生化の波が押し寄せていきます。
彼らもまた弥生化されていくプロセスで、争いが激化していったと考えられています。

縄文人が平和的で、弥生人が好戦的というステレオタイプのイメージも、
こうした経緯のなかで描かれている話です。


(4)邪馬台国はどこに?

吉野ヶ里遺跡の発見は、邪馬台国論争で
具体的な遺跡がみつかっていなかった九州説に強力な証拠となりました。

「魏志倭人伝」では、「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」と
邪馬台国女王卑弥呼の住んでいた集落を表現しています。

吉野ヶ里遺跡の発掘により、「魏志倭人伝」の記述通りの宮室・楼観・城柵を持った大規模環壕集落が、
邪馬台国時代よりも100年以上前から九州北部に存在していたことが立証されたのです。





しかも、吉野ヶ里は九州北部の弥生の集落の中でも、
玄海灘沿岸の「都市」から比較すれば「田舎」の集落だったようです。

玄海灘沿岸部にはさらに整備された都市が存在していたわけで、
これが邪馬台国となったのだという説には、それなりに説得力があるのです。

今回訪れた吉野ヶ里遺跡のガイドに携わる、多くのボランティアや学芸員の人々は、
邪馬台国が九州にあったのは当たり前だと考えているようでした。

「邪馬台国が畿内大和にあったというのは、
大和朝廷から天皇制との関係で辻褄を合わせたいだけで、
たいした根拠はないでしょう」と語る人もいました。

邪馬台国論争はさておき、弥生時代はまさに、
中国大陸や朝鮮半島との人的・文化的な交流、
渡来系弥生人によって創り出されたものです。

吉野ヶ里遺跡からは、
石製農工具・鉄製農工具・銅鏡・鋳型・布・絹など
朝鮮半島・大陸との交流をしめす出土品が多数出ています。
北内郭の入口で見られた鍵形に折れ曲がった構造は、
古代中国の城郭都市に多く見られたものです。

吉野ヶ里遺跡では、歴代の王が埋葬されている特別なお墓である北墳丘墓から順に、
北内郭、南内郭、一般人の住む南のムラと、
北から南に序列づけられた構造をしており、
これも古代中国の影響を色濃く示しています。

吉野ヶ里で発見された絹は、前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹で、
当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、
それが最初に国外に出たことを確認できたのが北部九州なのです。





さらに中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが
非常に似ているという解剖学的発見もあります。

弥生人のルーツを探る人骨と言えば、吉野ヶ里遺跡と共に、
山口県の土井ヶ浜遺跡を忘れるわけにはいきません。

弥生人の骨は、九州と山口県西部地域で大量に出土していますが、
その代表的な遺跡の一つが土井ヶ浜遺跡です。

レストランで昼食をとり、巨大な弥生テーマパークを後にして、
一路土井ヶ浜へと向かいました。

(5)人骨から紐解く弥生のルーツ

16日の夜は、土井ヶ浜遺跡そばの肥中海水浴オートキャンプ場で宿泊。
遠浅の美しい入り江で地物のアジやサザエのバーベキューに舌鼓を打ち、
翌17日早朝には海水浴を楽しみました。





午前9時、土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムの開館と共に見学を開始。

土井ヶ浜遺跡は、山口県の北西部、
日本海側に近い豊浦郡豊北町の響灘に面した砂丘で発見された
推定約1万平方メートルにも及ぶ弥生時代の墓地遺跡です。

1953年以来、11次以上にわたる調査で300体近い人骨が出土しています。





1962年に国の史跡に指定され、1990年には遺跡の一部を覆う土井ヶ浜ドームが完成し、
93年には出土遺物を収蔵する土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムが開館しました。

このミュージアムの展示は、吉野ヶ里遺跡の展示館などとは比較にならないほど充実していて、
吉野ヶ里がテーマパークだとすれば、こちらはミュージアムという名にふさわしい内容です。

酸性土壌の日本では、土井ヶ浜のような砂丘や貝塚、洞穴に遺体を埋葬するか、
あるいは吉野ヶ里のように甕棺などの容器に遺体を入れて、
まわりの土に触れないようにしない限り、人骨は残りません。

土井ヶ浜遺跡では、墓地を厚く覆った砂のなかに、
海岸から吹き飛ばされてきた貝粉が非常に多く含まれており、
貝に含まれているカルシウムが長い年月の間に溶解し、骨に浸透したことによって、
他の遺跡と比較しても骨が良く残っていることに特色があります。





土井ヶ浜で発掘された人骨の分析などによって、
山口県から九州にかけての地域には三つのタイプの弥生人が存在したことが分かっています。

第一のタイプが、吉野ヶ里や土井ヶ浜で発掘された
「北部九州・山口」タイプで、
顔の高さが高く(長く)、身長も高く、顔のホリが浅い扁平な顔つきの弥生人です。





第二のタイプは長崎や熊本などから出土した「西北九州」タイプで、
顔の高さは低く、横幅が広く、低身長で鼻が高く、ホリの深い弥生人。






そして第三のタイプは、鹿児島県南端や南西諸島から出土した
「南九州・南西諸島」タイプで、
「西北九州」タイプよりさらに「低・広顔」傾向が強く、著しい低身長の弥生人です。






この三タイプのうち、「西北九州」と「南九州・南西諸島」タイプは、
実はそれぞれの地域の縄文時代人の特徴を示したもので、
縄文人の子孫だと考えられます。

そして「北部九州・山口」タイプこそが、
大陸から渡来した弥生人かその子孫であることが判明しているのです。

館内には、テレビ画面上に現れる顔つきや身長などに関する質問に選択肢で答えていくと、
最後に縄文系か弥生系か、それとも縄文と弥生がどの程度ブレンドされているのかが判明する
アトラクションも用意されていました。





(6)コバルトブルーの海が広がる響灘

土井ヶ浜遺跡の発見により、弥生時代における民族学と人類学的研究は飛躍的にすすみました。

発掘された人骨のなかには、胸から腰にかけて11本の石鏃と2本のサメの歯でつくった鏃の
合計13本もの鏃がささった男性の人骨が発掘されています。

吉野ヶ里遺跡の首なし人骨と同様、弥生時代になって頻発した戦いによって死亡したのか、
あるいはこの男性が貝輪を2本はめていたことから、
シャーマンであったのに何らかの理由で殺されたのか、謎は解けていません。





また、鵜を抱いて埋葬された女性も発掘されています。

弥生時代には、鳥は天上の神の国と地上の国との間をとりもつ使者であり、
豊作をもたらす穀霊や、祖先の霊魂を運ぶものと信じられていました。
鵜を抱いて埋葬されたこの女性は、土井ヶ浜で唯一鉄製品を副葬されており、
巫女的な人物と推定されています。





何より興味深いのが、土井ヶ浜に共通する埋葬方法です。

もっとも多いのが、あおむけに膝などをまげる仰臥屈葬で、
ほとんどの頭は少し持ち上げるかたちで東南の方向に向けられています。
つまり、顔は西北の海の方を向くように埋葬されているのです。











吉野ヶ里の弥生人と同様に、彼らが最も珍重した装飾品の一つが、
沖縄や奄美諸島でしかとれなかった
ゴホウラ、イモガイといった大型巻貝を加工して作られた腕輪でした。

このゴホウラ、イモガイの貝輪は、北海道の有珠モシリ遺跡からも発掘されており、
弥生時代にはすでに沖縄から九州、そして日本海側を通って北海道に至る
海上の「貝の道」が存在したことを物語っています。





日本列島を縦断する2800キロの「貝の道」に比すれば、
九州北部や響灘から朝鮮半島は目と鼻の先です。

吉野ヶ里や土井ヶ浜に眠っていた弥生人たちの多くは、
明らかに朝鮮半島や中国大陸から渡ってきた人々でしょう。

土井ヶ浜がある響灘は、今でもコバルトブルーの美しい海が広がっています。
晴れた日であれば、古代弥生人でなくても、
船を漕ぎ出さずにはいられないほど魅力的な海です。





そして響灘の砂浜に埋葬された弥生人たちは、
おしなべて朝鮮半島、大陸の方向に顔を向けて埋葬されていました。

自分達の故郷を憶いながら安らかに眠れるようにと、
このような埋葬方法が行われていたのでしょう。





響灘から日本海を見て、何か遠い記憶が蘇ってくるような感覚のなかで、
日本人のルーツの一つの流れが、海を隔てた彼方にあると実感できました。



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