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 戦時中アメリカは、日本本土への無差別爆撃を繰り返した。

 首都東京も130回の空襲をうけたが、1945年3月10日に行われた東京大空襲は、まさに人類史上でも稀に見るホロコースト(大量虐殺)だった。

 米軍は325機のB29爆撃機を動員。
 約36万発の焼夷弾を東京・下町の密集地帯に投下した。

 米軍はまず、町を囲む円を描くように焼夷弾を投下して炎の壁をつくった。
 逃げまどう人々をそのなかに閉じ込め、逃げられないようにした上で、すべてを焼き尽くしたと言われている。

 荒れ狂う炎はあっと言う間に町中を覆い尽くし、老若男女を問わず、わずか2時間半で10万人以上が犠牲となった。
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当時、学徒兵として10万人の遺体の処理作業についた須田卓雄さんは、1970年12月29日付朝日新聞で自らの体験を綴った回想を発表。

 あの日何が起きたのか、そのなかで人々が何を体験したのか。
 決して忘れてはならない歴史の一つだ。

 花があったら

 昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、
 私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

 永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、
 無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、
 初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、
 さして驚くこともなくなっていた。

 午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。

 頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、
 倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、
 その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。

 着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

 その人は赤ちゃんを抱えていた。
 さらに、その下には大きな穴が掘られていた。

 母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。

 どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、
 その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。

 赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
 小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。
 だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。

 わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。
 どの顔も涙で汚れゆがんでいた。

 一人がそっとその場をはなれ、
 地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、
 母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。

 若い顔がそこに現れた。
 ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、
 苦痛の表情は見られなかった。

 これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。
 人間の愛を表現する顔であったのか。

 だれかがいった。

 「花があったらなあ――」

 あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。

 私たちは、数え十九才の学徒兵であった。


 この回想は、『写真版 東京大空襲の記録』にも収録されている。

 この本は東京大空襲の惨劇を克明に描いており、当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏が撮影した現場写真は、息を呑むほどの衝撃を私たちに与える。

 石川光陽氏がGHQの提出命令を拒否してこの数々の写真を守り続けたことが、本書の発行を可能にした。
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                        写真版 東京大空襲の記録 (新潮文庫)
 驚くべきことに、この東京大空襲のみならず、全国諸都市の焦土作戦の直接指揮をとってカーチス・E・ルメー将軍は、1964年に天皇と日本政府から勲一等旭日大綬章を与えられている。

 理由は、「日本の自衛隊の育成に貢献した」とのこと。

 戦争で10万人の日本人を殺しても、日本政府から勲章がもらえる・・・ 
 戦争と国家の本当の姿をこれほど端的に示す事実はない。

 東京大空襲・戦災資料センターを訪れてみるのもお薦め。
 詳細は以下のサイトを。

 政権交代と共に日本社会のあらゆる所で地殻変動が起きているのと軌を一にするかのように、ちょうど昨年末ぐらいからTwitterが注目を浴びるようになった。

 私がTwitterを始めたのもちょうどこの時期で、すでに3カ月余りがたった。

 正直、この3カ月間に私が得た貴重な情報のほとんどは、新聞やテレビではなく、Twitterを通じてのものだ。

 民主党小沢幹事長をターゲットとした検察の執拗な捜査と、検察リーク報道を垂れ流すマスメディア。
 その異常な姿に気づかせてくれたのもTwitter上を流れる情報である。

 あらためて、この国の新聞やテレビがどれほど偏向報道しているのか、世論を意図的にコントロールしているのか、嫌と言うほど痛感した。

 国民一人一人がメディア・リテラシーを高めるためにも、Twitterを有効に活用することは大きな意味がある。

 より多くの人にTwitterを活用してもらえたらと願い、月刊誌『Actio』2月号に掲載した私の文書を紹介したい。

 

140字のつぶやきは世界を変えるきっかけになるか?
Twitterを活用してネットワークを広げよう

 この10年ほどの間に爆発的に普及したインターネット。今やネット検索や電子メールでのやり取りを抜きに日常生活はあり得ないほど多くの人が活用している。

 そんななか、ここ数年で利用者が飛躍的に増大し注目を浴びる新たなネットコミュニケーションツールがツイッター(Twitter)だ。アメリカ大統領選ではオバマ陣営が活用、勝因の一つになったとも言われるが、その仕組みは極めて単純。「今どうしてる?」との問いに140字以内でつぶやく。勿論、つぶやく内容は日常の細々から政治的話題まで自由自在だ。

 政権与党民主党の国会議員にはツイッターを活用している人も多く、「仕分け人」蓮舫議員は、毎日事業仕分けの様子をつぶやき注目された。危機感を抱いた自民党も国会議員に利用を指示。朝日新聞や毎日新聞などの大手マスコミ、あるいは企業なども公式アカウントを取得して宣伝やマーケッティングに利用し始めている。

 私自身始めてまだ数カ月だが、正直かなりはまっている。原発、環境、政治などの社会的テーマから自転車、合気道など個人的趣味まで、毎日のようにつぶやいている。そんな私のつぶやきをフォローしてくれる人も日毎に増え、賛否両論様々な反応が返ってくるのは実に刺激的だ。

 とは言え1回に投稿できる文字数はわずかで、つぶやきはどんどん流れては消えていく。「これでどんなコミュニケーションが可能なの?」と疑問を抱く人は多いだろう。

 しかしツイッターの開発者はこう語っている。「人間同士のコミュニケーションは、得てしてたわいもないことから始まる」。

 確かにいくら理路整然とした立派な文書でも、延々と論じられては気軽に読めない。オフライン同様、「おはよう」とか「今日はいい天気だね」との何気ない会話こそ潤滑油になる。さらに相手の承認なしに勝手にフォローできるので、気軽にどんどんネットワークを広げられる。自由で開放的な緩やかなつながりを創造できる空間なのである。

 「だけど重要なことは何も伝えられないのでは?」とのさらなる疑問にもお答えしたい。ツイッター上を駆け巡っている何万ものつぶやきは貴重な情報の宝庫。

 例えば沖縄普天間基地移設問題。マスコミは連日のように「鳩山政権が辺野古移転を拒んでアメリカが怒っている」と伝えた。しかしツイッター上では早くからまったく逆の情報が様々なソースから流れていた。アメリカの最大の関心事は海兵隊のグァム移転であり、もともと辺野古移転に関心はない。むしろ埋立利権を得たい日本側にこそ拘っている輩がいると。

 私は日頃からマスコミ報道には何かと疑問を感じ、メディア・リテラシーの必要性を自覚していたつもりだ。しかしツイッターを通じて様々な情報に触れることで、あらためてマスコミの偏向報道の酷さを痛感した。テレビのニュース番組よりもツイッター上に流れる価値ある情報を精査し拾い上げる方がはるかに信頼できる。

 さらにツイッターは、テレビやラジオを上回る速報性や波及力を発揮する可能性を秘めている。1万人にフォローされている人のつぶやきは、リアルタイムで1万人に伝わる可能性があり、それがさらに連鎖すれば何十万、何百万の人にあっという間に情報が波及する。ニューヨーク・ハドソン川に旅客機が不時着した際、それを最も早く伝えたのはiphoneからの写真付つぶやきだった。

 とにかく百聞は一見にしかず。一度ツイッターにチャレンジしてみて欲しい。環境や人権などのテーマに取り組むNGOやNPO、社会起業家、ジャーナリスト、政治家など、実に多種多様な人たちと新しい関係を創造するチャンス!

 最後に、『Twitter社会論』の著者津田大介氏の言葉を紹介しておこう。

 「人々が動くための一歩目を踏み出すツールとして、ツイッターは間違いなく優秀だ。何かをあきらめてしまった人が、ツイッターを使うことで『再起動』できれば、少しずつ世の中は良い方向に動いていく。そんな希望を持ちたくなる、得たいの知れない力をツイッターは持っている」

 デューイの掲げたプラグマティズとそれに基づく教育論。
 それはアメリカで広く普及したが、しかしベトナム戦争などを経てアメリカ社会は大きな病理に陥る。

 教育によって社会は変わり得るとのデューイの理想は限界に突き当たったのか?
 この問題について『学校と社会』解説では以下のように記している。

 「学校教育の力の限界。学校は、社会にすでに存在している欲求や目的に奉仕する技術的手段を青少年にあたえているのであって、社会的活動がそれによって選択され決定されるところの根源である欲求自体、目的自体を形成することには、成功していない」

 「よりよい教育が、教育機関によってではなく、社会そのものによっておこなわれている。だから社会そのものが教育的にならないかぎり、学校がいかに教育的活動につとめようともだめである」

 では教育的な社会とはどんな社会なのか?

 「公共的な目的のためにプラニングと実験が不断におこなわれるような社会、不断に計画されてゆく社会、社会それ自体がひとつの教育機関となる、金銭的な利得のための競争的な努力の場であることをやめて、協同的に、したがって教育的になりうるような社会」

 ではこのような社会を創造するために、教育は何をすべきか?

 「教育は、社会の変化を生みだすことにおいて、一つの役割を、重要な一つの役割をもつものとして再調整されなければならない」

 本書はJ.S.ミルが1867年セント・アンドルーズ大学に名誉学長として就任した際の講演をまとめたものである。

 就任演説では冒頭で次のように教育について語る。

 「教育は色々な人々によって種々様々な観点から是非とも考察されなければならない」

 「多面的な問題の中でも、その最たるものが教育の問題である」

 「人格の完成というその直接的な目的以外に、例えば、法律、統治形態、工業技術、社会的な生活様式等が、更に人間の意志に左右されない物理的現象、例えば、気候、風土、地理的位置等の、人間の性格と能力とに及ぼす影響などまでも含まれる」

 「人間形成に影響を与えるものはすべて、つまり、現在の自己たらしめ、現在の自己からかけ離れないようにさせているものすべて」

 まさに教育とは社会全般にかかわっており、人間に影響を与えるもの全てが教育に含まれるとの彼の教育観が示されている。

 であるがゆえにまた、こんなことも述べている。

 「教育とて、悪い教育も往々にしてあり、その結果、その悪影響を防止するために知性と意志との教化によってなしうることすべてをしなければならないこともある」

 本書は、大学教育に限定してミルが語った講演を集めたものだが、そもそも彼は大学教育をどのように位置づけていたのか?

 「即ち、既に到達した進歩の段階を少なくとも維持しうる、また、できることならば、それを引き上げることができるような能力を育成するために、各世代がその後継者になりうる人々に授ける教養」

 「大学は職業教育の場ではない。大学は、生計をうるためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要となる知識を教えることを目的としてはいないのである。大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにある」

 「専門技術をもとうとする人々がその技術を知識の一部分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術に吹き込むかによって、つまり、教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植え付けたかによって決定される。人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのである」

 「大学で学ぶべきことは知識の体系化についてである。つまり、個々に独立してる部分的な知識間の関係と、それらと全体との関係とを考察し、それまで色々なところで得た、知識の領域に属する部分的な見解をつなぎ合せ、いわば知識の全領域の地図を作り上げることである。現に実在しているものすべてが種々様々な特性からいかに構成されているかを考察することである」

 「というのも、全体が考慮に入れられなければ、われわれはそれらを単なる抽象として知るだけであって、『自然』の一事実として真に知ることはありえないからである」

 「各部門が、われわれ人間が共有する性質を強化、高揚、純化、洗練するという人類共通の目的に到達するためには、そして、また、人間が一生を通じてなすべき仕事に必要な精神的道具を供給するためには、いかに協調し合うべきであるのか」

 「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させること」

 「人間精神が扱うことのできる主題のなかで最も複雑なものは政治と市民社会である。それ故、一政党に盲目的に追従する人としてではなく、思慮ある人としてその双方に適切に対処しうる人になるためには、精神的、物質的生活両面の重要な事柄についての一般的な知識が要求されるだけでなく、正しい思考原理と法則によって、単なる生活体験、一科学または知識の一分野では提供しえない段階まで、訓練され、鍛え上げられた理解力が必要となる」

 「われわれの学問の目的は、単に将来自らの仕事に役立つような知識を少しでも多く身につけるということにあるのではないということ、むしろ、人間の利害に深く関わるありとあらゆる問題について、何らかの知識を、しかも正確に把握するよう気を配り、われわれが確実に知っていることとそうでないことの境界線を明らかにするということにこそある」

 ミルは政治や社会と総合的に向き合う実践的な判断力、思考力の育成を極めて重視していたことが分かる。

 それは結局、人間がより幸福に暮らすことができるより良い社会を創造することこそ、教育の究極の目的だと考えていたからだろう。

 自由主義哲学の草分けである『自由論』を著したJ.S.ミルは、1806年ロンドンに生まれた。
 父親は『英領インド史』の著書ジェイムズ・ミル。
 『ミル自伝』(岩波文庫)ではその父についてこう述べている。

 「父は、アンガス州ノースウォーター・ブリッジに住む小商人で同時にささやかな農業を営んでいた(と思うのだが)ものの子に生まれ、少年のころに、その才能のゆえに、スコットランド財務裁判所判事の一人でファタケアンに住んだサー・ジョン・スチュアートの認める所となり、その結果、ジェイン・ステュアート夫人その他の貴婦人たちがスコットランド教会で働く青年を養成するために創設したある基金で、エディンバラの大学に入学することになった。

 父はその大学で、おきまりの学科課程をおさめ、伝道師の資格を得たが、ついにその職には就かなかった。スコットランド教会にせよその他の教会にせよ、その教義を信ずることはできないという結論に達したからである」

 ミルはこの父から、わずか3歳にして「天才教育」を受けることとなる。
 自伝冒頭には、次のように記されている。

 「このごろは、教育とか教育の改革とかが、英国の歴史上かつてなかったほどに、深くとはいえないまでも、さかんに研究されている。して見れば、私の受けた、なみはずれた異色のある一つの教育の、多少の記録を残すことは何かの役に立つかもしれない。

 しかもその私の受けた教育は、他の点の結果は論外としても、世間でいう教育の普通のやり方ではまったくむだに使われているといってもよい幼少の時代に、世間一般に考えられている程度よりもはるかに多くのことを、しかも見事に、教え得るのだということを証明しているのである」

 この「異色」の教育とはいかなるものだったのか?

 我が家では玄米をよく食べる。

 農薬や除草剤は糠の部分に最も残留するから、玄米を食べるとしたらやはり無農薬・有機栽培のものがお薦めだ。
 さらに美味しく食べるには、やはり電気炊飯器ではなく圧力釜で炊くのが一番。

 精白された白いお米よりも、雑穀や玄米のほうがはるかに栄養価が高く、健康に良いことを教えてくれたのが本書だ。

 著者の大谷ゆみこは、自らの体験からこう語っている。

 「便秘に悩まされていたのが、雑穀を食べるようになって身も心も爽快」

 実際のデータもそれを物語る。

 例えば、ヒエの栄養成分を白米と比べると、タンパク質は1・36倍、脂質は3・7倍、食物繊維は10倍、カルシウムは5・5倍、鉄分は7倍もある。

 NASA(アメリカ航空宇宙局)では、宇宙食の研究開発の中で雑穀のすぐれた栄養バランスに着目している。
 インカ伝統の主食作物キヌアを研究し、10年以上前に完全な栄養バランスをもったスーパーグレインとして宇宙食に指定、二度にわたって「21世紀の主食」と発表したという。

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 ジョン・デューイは1859年、アメリカ・ヴァーモント州で、イギリスから移住してきた開拓者の4代目の家庭に生まれた。

 この年、後に彼が多々大な影響をうけたダーウィンの『種の起原』が刊行された。
 宗教的な因習にとらわれず、実証的で科学的な学問が大きく花咲いていく時代にデューイは育ったのだ。

 大学卒業後、1年ほどハイスクールの教師となり、その後、哲学の研究を志して、ジョンズ・ホプキンス大学の大学院に入学。
 学位論文「カントの心理学」を記して助教授となるが、この当時は、ヘーゲル主義者としてドイツ観念論に傾倒したという。
 しかし1890年代に入り、彼の問題意識は急速にヘーゲルから離れ始める。

 そしてジョージ・ハーバート・ミード (George Herbert Mead)に強く影響され、観念の実地への適用という実証主義的・技術的な見地から、精神と行動の関係を考察するようになる。

 また、個人と社会の関係を、個体と環境の相互作用という生物学的見地から考えるようになる。
 こうして自ら名付けた道具主義、或いは実験主義が形成されはじめたのだ。

 「知能がもつ特殊に社会的な表現、すなわちいわゆる『社会的知能』という働きには、所与の個人が、自分といっしょに所与の社会環境のなかにふくまれている他の個人たちの役割を採用する─他人たちの位置に自分自身を置く─能力をどうもっているかによって左右される」

 34歳となった1894年、シカゴ大学に哲学・心理学・教育学を合わせた学部の部長として招かれる。

 「観念は実際の状況のなかで使用してみなければ、その正しさを試査することもできないし、その誤りを訂正することもできないという立場から、とくに教育のことが関心をひく。つまり、教育といく過程を操作すれば人間の認識の発達や性格の発達についての実験を行うことができる」

 こうした考え方のもとデューイは、生きた人間の社会生活を実験材料とする、実験室学校(Laboratory School)、シカゴ大学付属小学校を開設する。

 当初、この学校は生徒16人、教師は2人のみ。
 しかし、周囲の無理解や財政難とたたかいながら1898年には生徒81人にまで拡大。
 この3年間の実験の報告をまとめたのが、『学校と教育』である。
 この実験室学校は1903年まで続いた。

 こうした彼の活動は、アメリカ資本主義の発展形態にふさわしい哲学=プラグマティズムを確立した。
 それはアメリカ哲学の主流として不動の位置を占めるようになる。

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 教育過程を実社会の活動と密接に結び付けることで、教育を通じて社会性や公共性を培うことを目指したデューイ。

 そのデューイは教育の対象である子どもをどのように捉えていたのか?

 「子どもはすでにはげしく活動的」

 「或る潜んでいる活動の萌芽をおとなが漸次に抽きだすために多大の注意と熟練をもって接近しなければならぬというような純粋に潜勢的な存在ではない」

 子どもは大人が関わらなければ自分から何もやらない、精神的にひ弱な存在ではない。
 むしろ、活動的な子どもをいかに指導していくかが教育に問われる。 
 

「子どもが種種の事実、材料、およびそれらのものにふくまれる諸条件を認識することによって自分の衝動を実現し、そしてその認識をつうじて自分の衝動を規制するようになることは、教育的である。

 これが興味をたんに刺激する、或いはほしいままにさせることと、興味を指導することによってそれを実現させるこことのあいだに存する差異であって、この差異を私は強調したいのである」

 子どもの興味をどう意識的に実現させ、自分の行動を振り返らせ、より高い考察を持続させるのか。
 他者との関係の中で社会的、主体的存在としてどう高めていくのか。
 
 そのためのに彼は、教育者が関わるべき子どもの衝動(興味)を4つに分類する。

 ジョン・デューイは20世紀前半、アメリカの公立学校を中心とした初等中学校教育の形成に重要な役割を果たした。

 ここで紹介する『学校と社会』は、1899年、彼自らが創設したシカゴ大学付属小学校で生徒の親と学校の後援者を前に行われた講演をまとめたものだ。

 「いつでもわれわれが教育上の新運動についての論議のことを考えるばあいには、これまでよりもひろい、いいかえれば社会的見地をとることが、とりわけ必要である」

 「おおざっぱに『新教育』とよばれるものを、ここでひとつ、社会のより大きな変革に照らして考えてみていただきたい」

 「われわれはこの『新教育』を社会の諸事象の一般的進行とむすびつけうるであろうか。もしむすびつけうるとすれば、『新教育』は、その孤立的性格をうしない、...全社会進化の重要な一部分として、不可避的なものとして、あらわれるだろう」

 こうした発言にも示されるように、デューイは学校の改革は社会的変化の中で考えられねばならないと訴えた。

 彼によれば、家内制手工業の時代には、家庭の各員が仕事の作業を分担しており、教育は生活の中そのものに存在した。

 「秩序や勤勉の習慣、責任の観念、およそ社会においてなにごとかを為し、それが為されることを実際に必要とする或ることがらがつねに存在し、物の役に立つように行動する人間が、行動そのものをとおして育成され、試練された」

 しかし19世紀後半、産業革命を経た欧米では産業形態が大きく変化した。
 家内制手工業は巨大な工場にとって代わられ、産業の集中と労働の分業が飛躍的に進んだ。
 「家庭と近隣から有用な仕事がなくなってしまった」のである。

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ボスニア紛争が激化していたさなかの94年7月、アフリカ中部のザイール(現在のコンゴ共和国)に、隣国ルワンダから大量の難民が押し寄せた。

 わずか4日間で100万人の人々が国境を越えた。

 民族紛争では、救援を求める難民が同時に紛争の当事者にもなり得る。
 ルワンダ難民がまさにその典型だった。
 難民の中に多数の武装勢力が混じっていのだ。
 
 難民流失の原因は、ルワンダ人口の85%を占めるフツ族と14%を占めるツチ族との対立にあった。

 植民地時代にベルギーから優遇された少数派のツチ族は、独立以降、クーデターで政権掌握したフツ族から抑圧を受けていた。

 やがて内戦になり、93年にはいったん和平協定が結ばれ、国連から平和維持軍も派遣されたが、94年から再び戦闘が激化していた。

 4月から7月におきた大量虐殺で、80万人もの人々が殺された。

 主犯はフツ族の強硬派だったが、煽動的なラジオ放送に影響を受けて多くの民間人も暴動に加わり、鎌や鉈(なた)を使って隣人たちを殺していった。

 当時、国連ルワンダ支援団として平和維持軍が展開していたが、その大半は暴動の発生直後に撤退。
 虐殺を止めることはできなかった。

 やがてツチ族は反撃に転じ、数週間で全土を制圧する。
 内戦に敗れたフツ族旧政府軍兵士たちは報復を恐れ、一般市民を率いて隣国ザイールに逃れた。
 これが100万人の大量難民となった。

 当時日本も、国際平和協力法に基づく初めての「人道的な国際救援活動」として自衛隊などをゴマに派遣し、医療、防疫、給水、空輸などの分野で救援活動を行っている。

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 冷戦崩壊後の1991年、6つの共和国で構成されていた旧ユーゴスラビア連邦からスロベニア、クロアチアが次々と分離独立。

 これをきっかけとして、ヨーロッパ・バルカン半島に大規模な民族紛争が火を噴いた。

 共産主義の時代、チトー大統領の独裁下で抑えられていた民族対立と独立への欲求が、冷戦終結に伴う経済危機で一気に噴き出したのである。

 政治の実権を握っていたセルビア人は領土を維持しようとし、セルビア中心の連邦軍と各共和国軍が戦うことになる。

 当初は『大セルビア主義』を掲げたセルビアがクロアチアを軍事的に圧倒し、多数の難民が発生。

 そこに国連が乗り出し、最終的にはクロアチアの中に国連保護軍(UNPROFOR)を派遣して『安全地帯』を確保。
 最終的には、多数派のクロアチア人が少数派のセルビア人を追い出して独立する。

 しかし翌1992年3月、今度はボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、事態は一気に悪化した。

 緒方貞子は、1990年12月、国連総会で第8代の難民高等弁務官に選出され、2000年末までの3期10年を担った。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、国際人道機関の一つで、特に自国を追われた人々=難民の保護と救済を専門的に扱う責務が与えられている。

 予算は各国政府と民間団体の寄付で、2002年7月現在年間10億ドル、世界114カ国に286の現地事務所を有し、ジュネーブ本部と合わせて5500人が働いている。

 緒方はUNHCRの任務について次のように語った。

 「難民の代表なんですよ。二つの面があるわけです」

 「法的な保護というよりも全体的な保護なんですよね。基本的な人権といいますけれども、いちばんの基本は、安全の保障であり、それから基本的な経済社会的権利の実現です。

 それを難民というきわめて限定された状況の中でどれだけまもるかということなんですよね。守るためにはそばにいないといけない。彼らとのコミュニケーション、彼らの安心感、信頼感、それを得るためには、現場に人がいなければいけないわけです。

 もう一つ、誰に対して彼らの訴えをしていくかというと、大体は政府ですよね。難民を受け入れた庇護国の政府。難民キャンプを造ろうと思ったって、ただ行ってつくれるわけじゃありませんから、その交渉から基本的な条件づくりからやらなきゃならない」

 「そして追放した政府に対して問題の解決を交渉しなければならない」

 「国際社会において有力な国々に、支援というものを、法的にも実態的にも財政的にもすべて訴えていく」

 「この仕事につくまで、その真髄には触れたことがありませんでした」

 「問題解決型の思考を非常に強めたと思います」

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 1962年、まさに経済成長真っ盛りのアメリカで『沈黙の春』を著し、農薬や化学物質による環境汚染にいち早く警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソン。

 「沈黙の春」とは、環境汚染により昆虫や魚が死滅し、春になっても鳥たちが鳴かない「死の世界」が訪れることを示唆している。

 『沈黙の春』は当時大きな論議を巻き起こした。
 農薬や化学物質の有害性を訴えたレイチェルに対し、産業界を中心に猛烈な誹謗・中傷が浴びせられた。

 しかし彼女はそれに屈することなく危機を訴え続け、農薬の使用制限など様々な環境関連法の成立を促した。

 映画 『センス・オブ・ワンダー』の原作は、彼女が『沈黙の春』を著す前にアメリカの若い母親のための雑誌に執筆したエッセイである。

 彼女の死後、友人たちの手で『センス・オブ・ワンダー(THE SENSE OF WONDER)』と題して出版された。

 レイチェルは、姪の息子ロジャーと一緒に自然の中に出かけ、「センス・オブ・ワンダー(=神秘さや不思議さに目を見張る感性)」を育むことの大切さを教えた。

wonder.JPG 映画では、アメリカ・メイン州に現存するカーソンの別荘周辺の森や海辺の美しい四季を描きながら、レイチェルやロジャーが感じたであろう自然の神秘、そこでの驚きや感動を再現している。
  http://www.g-gendai.co.jp/movie/~senseofwonder/index2.html

 近代化の波のなかで、都市はコンクリートとアスファルトで固められ、自然は人間からかけ離れた存在となった。

 現代人は、本来誰もが持っていたはずの「センス・オブ・ワンダー(THE SENSE OF WONDER)」を失いつつある。

 都会住む多くの子どもたちは、朝日が昇る、あるいは夕陽が沈む瞬間を見たことがないという。

 テレビ画面が巨大化し、どれほど精度が高まろうとも、本当の自然の美しさには代えられない。

 「センス・オブ・ワンダー」を完全に失ってしまえば、人類は生物種として存続できなくなるかもしれない。

 人間の知とは何か、それがいかなるしくみやはたらきを持つのか?

 この問いへの回答を学際的に探究しようとする科学は、ヨーロッパ哲学の流れとは相対的に別個に、アングロ・サクソン系の経験科学を出発点として発展してきた。
 これが今日、認知科学と呼ばれているものである。

 もとより認知科学というカテゴリーは1970年以降に登場したものであり、その内容的規定をめぐっては様々な立場が存在している。

 ここではまず、認知心理学者の一人ハワード・ガードナーの認知科学に関する定義を踏まえたい。
 ガードナーは認知科学により、西欧哲学の系譜にある認識論上の哲学的諸命題と対質しようとしている。

 「私は認知科学を次のように定義する。すなわち、認知科学とは、永い年月を経て問われてきた認識論上の問題に答えようとする、経験に基礎をおいた現代的な試みであり、特に、知識の性質、その構成要素、その源泉、その発展と利用にかかわるものである」

 先日テレビ東京の番組で、人工知能について特集を組んでいた。
 
 しかしそこで取り上げられている人工知能は、パソコンに毛の生えた程度のものでしかなく、とても知能と呼ぶには程遠いものでしかなかった。

 例えば、コンビニの空調や照明の調整を、時間帯や気温、日光の照射などの情報をもとにして自動的に調整する機能。
 果たしてこれを司るのが「人工知能」と言えるだろうか?

 私から言わせれば、センサーの数や種類を増やし、プログラムを少し複雑にしただけの話で、知能と呼ぶには程遠い代物でしかない。
 では一体、知能とは何なのか?

 膨大な情報を物凄いスピードで処理しているコンピュータは、あたかもそれらの情報をもとに推論や帰納を行っているかのように見える。

 しかし、実はそこでの情報処理はあらかじめプログラムされた定理と条件を使って演繹的推論を利用しているに過ぎない。

 ゆえにどれほど高度なスーパーコンピュータでも、プログラムがカバーできる範囲での、つまり定理が正しいという前提においてしか情報に対応できない。

 本来の人工知能とは、こうした既存のコンピュータの限界を突破するものでなけば意味はない。
 これこそAI(Artificia Intelligenc)開発の目標のはずだ。

 『知のエンジニアリング―複雑性の地平』の著者橋田浩一は、本来のAIで問題にされていることを次のように語る。

 「特定の用途や文脈に限定されないシステムに関する工学または科学」

 分かり易く言えば、映画『2001年宇宙の旅』に登場するスーパーコンピュータHAL9000を本当に開発できるのかを問題にしているわけだ。
 HAL9000は自意識を持ち、人間に反乱を試みる。
 まさに人間と同じ知能を持つ存在として描かれていた。

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 間もなく9月11日。
 2001年のその日、世界は衝撃に包まれた。
 
 ニューヨークの世界貿易センタービルやペンタゴンに旅客機で突っ込む、前代未聞の同時多発テロが起きたのだ。
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 このテロを機に、怒れるアメリカは雪崩をうつようにアフガン空爆からイラク戦争へと突き進んだ。
 そのブッシュ政権のなかで強い影響力を持ったのがネオコンである。

 本書は、彼らの思想的、人脈的なルーツを解き明かすと共に、イデオロギー的には「理想主義」でありながら、政治的には「現実主義」に徹するがゆえのその危険性を指摘した。

 
 ネオコンもビンラディン氏らもいくつかの面では奇妙に似通っている。
 どちらも防衛のために先制的に敵を叩くという戦略では共通している。

 「アメリカ型民主主義」か、「イスラム急進主義か」の違いはあれ、武力を伴って自らの「主義」(イズム)に基いて世界を染め上げようという点も同じだ。

 さらに両者とも、その「主義」については徹底して非寛容である。

 ネオコンもビンラディン氏のグループも小さな「セクト」に結束して世界を語り、外野の異論が高まるほどその内部結束が強固になるという性格を持つ。

 自らの卓越した先見性と優秀さを確信し、支持者の頭数など二の次である。これはある種のロシア革命を牽引した「ボルシェビズム」の変形なのかもしれない。

 『ネオコンの論理』(光文社)の著者ロバート・ケーガンは、ブッシュ政権の外交政策を先導したシンク・タンク『アメリカ新世紀プロジェクト』(PNAC)の思想的支柱を務めた論客だ。

 PNACの発足にあたって、ブッシュ政権のチェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、アーミテージ国務副長官、ウルフウィッツ国防副長官などの閣僚が発起人に名を連ねたことを考えれば、ケーガンがどれほどブッシュ政権に影響力を与えたのかよく分かる。

 本書のベースとなった論文は9・11テロ後、『力と弱さ』と題されてヨーロッパ向けに発表された。
 その内容に衝撃を受けた当時のプローディ欧州委員会委員長が、EUの全官僚に必読文献として回覧を命じたほどだ。

 本書を一読すれば、ブッシュ政権がなぜ国連を無視し、全世界の反対の声を踏みにじってイラク戦争に踏み切ったのかが良く分かる。

 その主張は余りにも単純明快だ。
 全世界の秩序を守るためには、アメリカの圧倒的な軍事力が不可欠なこと。
 同時に圧倒的な軍事力を持っているがゆえに、アメリカとそれ以外の国とでは、「脅威に対する認識」が異なっていると主張している。
 
 「はじめに」では次のように語る。

 「ヨーロッパは軍事力への関心を失った」

 「歴史の終わりの後に訪れる平和と繁栄の楽園、十八世紀の哲学者、イマヌエル・カントが『永遠平和のために』に描いた理想の実現に向かっているのだ」

 「これに対してアメリカは、歴史が終わらない世界で苦闘しており、十七世紀の哲学者、トマス・ホッブズが『リバイアサン』で論じた万人に対する万人の戦いの世界、国際法や国際規則が当てにならず、安全を保証し、自由な秩序を守り拡大するにはいまだに軍事力の維持と行使が不可欠な世界で、力を行使している」

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 8月15日を前後して戦争を巡る様々な報道番組が放映された。
 そのなかには、マスコミの戦争責任を問い直す番組もあった。

 言うまでもなく戦争中、朝日や読売などのほとんどのマスコミは翼賛体制に迎合し、大本営発表を垂れ流しながら戦争を煽り続けた。
 まさに国民を積極的に戦争に動員する役割を果たしたのだ。

 彼らは戦後、それを深く反省したはずだ。
 しかしながら、イラク戦争報道において同じ過ちを繰り返した。
 こう指摘するのは、作家の辺見庸だ。

 彼は『抵抗論』(毎日新聞社)Ⅲ章の「実時間の表現」のなかで、2003年4月24日付朝日新聞朝刊で取り上げられたイラク戦争報道を巡る記事を取り上げている。

 この記事のテーマは、「『進攻』か、『侵攻』か。米英軍がクウェートからイラクに攻め入った地上戦をめぐり、日本の新聞各紙や通信社は言葉の選び方が異なっていた」との内容だった。

 かって辺見が勤めていた共同通信は、米地上軍がイラクへ侵略を開始した事実を、4月21日付朝刊用に配信した。
 その記事の見出しは「米軍がクウェートから進撃」とされた。

 その理由について辺見の元同僚である編集局次長はこうコメントした。

 「『侵攻』か『進攻』かは、世論を二分している問題で、価値判断を伴う言葉を配信先に押しつけるのは不適切と判断した」

 辺見はこのコメントに激しく憤っている。

 ハイエクは『問題の性質とその歴史』において、社会主義で問題となるであろう次のような点も指摘した。

 「たとえ、生産資源の共有が、個々の資源単位が使用されるべき目的とその使用の方法とを競争的に決定することと、両立しうるとしても、われわれはなお、資源の一定量を社会のために処分する機能をもつのは誰であるかの問題、あるいはどれだけの資源が種々なる『企業家』に任されるべきかの問題は、一個の中央当局によって決定されるべきであろうと仮定しなければならない。これは共有の観念と両立しうる最低の仮定であり、共同体をして生産の物的手段から生まれる所得に対する支配権をなお留保せしめうるための最小限度の中央指導であるように思われる」

 つまりどれだけ分権化され、機能的に組織されようと、そしてまた市場や貨幣経済を導入しようとも、社会主義である以上は必ず経営上の権力や権限が行政的に決定される余地が残るというわけだ。

 だとすればその場合、経済的な合理性を追求するインセンティブが充分に形成されうるのか? これがハイエクの突き出した問題である。

 経済計算を巡る議論に対して、従来の多くの左翼は、往々にして議論のレベルをすり変えようとしてきた。

 いわく「ブルジョア的な私的所有制度に呪縛されているから、計画的な生産や消費が不可能だと考えるのであって、社会的な富がすべての労働者のものであり、分配が公正に行なわれるならば、必ず目的意識的な経済運営は可能なのだ」と。

 こうした議論に対するミーゼスの批判は示唆に富んでいる。

 「カール・マルクスおよびその正統的支持者たちのそれを含むすべての社会主義体制は、社会主義社会においては、特殊と一般との利害の衝突が全く起こり得ないという仮定から出発している」

 「彼らは社会主義共同体国家を『無上命令』(終局的道徳律としての良心の命令―訳注)の基礎の上にのみ、構成し得ると信じている。彼らがこのような仕方に如何に気軽に進む習性を持っているかは、カウツキーが次のように述べる時、最もよく示されている。『社会主義が社会的必然だとすれば、社会主義と人間性質とがもし衝突したとした場合に、自己を調節しなければならないものは、社会主義ではなくて、人間性質であろう』。これは愚かな空想主義以外の何ものでもない」

 カウツキーだけでなく、当時の社会主義者のほとんどが、こうした極端な設計主義的志向を持っていたことは想像に難くない。

 しかし資本主義を道徳的、倫理的に批判するだけでは、合理的な経済運営を実現することはできない。

 1917年にボルシェビキ政権がロシアに誕生し、歴史上初めて「社会主義」を掲げた国家が成立した。

 産声をあげたばかりのロシア社会主義を押しつぶそうと躍起となったヨーロッパ各国は、革命圧殺を目的に内戦に干渉し、おびただしい赤軍兵士の血が流され、戦時経済によってロシアは疲弊していった。

 こうした厳しい状況のなかで戦時経済体制を続けたロシアは、1919年にブレスト講和を締結し、以降レーニン指導下で新経済政策(NEP)を採用する。

 リアリストだったレーニンは、市場経済を再導入して労農同盟を維持する必要を感じていたのだ。

 しかし、政治的感覚においては優れていたレーニンも、理論的にはあくまでも社会主義計画経済に固執した。

 一方ロシアの経済学者ボリス・ブルツクスは、1920年8月ペトログラードで開催された学者の集会で、社会主義下では合理的な経済計算は不可能だとする演説を行ない、22年には雑誌『エコノミスト』で発表した。

 残念ながら間もなくこの雑誌はボルシェビキ政権に弾圧され廃刊に追い込まれ、ブルツクス自身もレーニンの指示によって国外追放されてしまう。

 歴史上初の社会主義国家だったソ連邦は、成立からわずか70年余で崩壊した。

 ソ連邦の崩壊は、明らかにその下で生活していた人々が、社会主義体制に希望も喜びも見出すことができず、三行半を突きつけたことによって起きた。

 それから既に20年近く経過した今日もなお、「社会主義」を政治的信条として掲げている人々がいる。

 しかし社会主義を巡る問題は、経済的なリアリティを抜きにして語ることはできない。単なる信仰告白では済まされないのである。

 その意味で、ロシア革命直後からヨーロッパの経済学者、社会主義者のなかで行なわれた「社会主義経済計算論争」は、今日的にも非常に示唆に富む視点を突き出している。

 この論争に関し、日本の左翼はほとんど関心を示してこなかった。それはまさに、日本における左翼運動の大きな限界だったと言えよう。

 『原典 社会主義経済計算論争』(ロゴス社刊)を参考に検証してみたい。

 民衆の抵抗権、革命権を重視する立場から、アメリカの独立時には、民兵制か常備軍かを巡る議論が活発に行われた。

 国家の自衛権や常備軍の是非を論議するならば、それが民主主義社会にとって本当に必要なものなのか? 必要だとすれば、それが民衆抑圧に転化しない保障措置をどうやって講じるのかをきちんと論議すべきだ。

 少なくとも建国時のアメリカにおいては、こうした議論がかなり突っ込んで行われたのである。

 例えばヴァジニア権利章典では次のように述べている。

 「武器の訓練をうけた人民の団体よりなる規律正しい民兵は、自由な国家の適当にして安全なる護りである。平時における常備軍は、自由にとり危険なものとして避けなければならない。いかなる場合においても、軍隊は文権に厳格に服従し、その支配をうけなければならない」

 常備軍は政治権力によって民衆抑圧に使われる危険性が高く、主権者たる民衆自身による組織的統制のとれた民兵制度こそが民主主義にとってふさわしいと考えていたわけだ。

 しかしながら、アメリカ独立時のこうした考え方は、独立戦争を経て、1788年の連邦憲法制定までの過程で徐々に変化していく。

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 世界ではじめて作られた成分憲法は、1776年から1789年にかけて制定されたアメリカ諸州の憲法だ。

 イギリスの大陸支配に抗して1776年7月4日に発せられたアメリカ『独立宣言』では、次のように謳った。

 「長く存続した政府は、軽微かつ一時的な原因によっては、変革さるべきでないことは、実に慎重な思慮の命ずるところである。したがって、過去の経験はすべて、人類が害悪を堪えうるかぎり、彼らの年来従ってきた形式を廃止しようとせず、むしろ堪えようとする傾向を示している。

 しかし、連続せる暴虐と簒奪の事実が、明らかに一貫した目的のもとに行われ、人民を絶対的暴政のもとに圧倒せんとする企図を明示するにいたるとき、そのような政府を廃棄し、みずからの将来の保安のために新たなる保障の組織を創設することは、彼らの権利であり、また義務である」

 近代市民社会は基本的に法律に定められた契約関係、権利・義務関係のなかで成立している。

 これが何人にであろうと公平・公正に適用されることが、社会的正義の実現と合意形成にとって不可欠だ。
 法治主義のもとでは、政治権力が恣意的に法律を運用し適用することは許されない。

 ましてや、個人の精神的な領域での善悪や好悪にまで権力が口出しすることは、「内心の自由」を脅かすパターナリズムの弊害として厳しく排斥されるべきだ。

 J.S.ミルは主著『自由論』において、パターナリズムの弊害について実に示唆に富む指摘を行っている。

 戸坂と対照的なのは、梯明秀の西田評価だ。
 梯は、1937年『学生評論』に、その名もズバリ「西田哲学を讃ふ」と題した評論を掲載。マルクスの『経済学・哲学草稿』を西田に紹介したのも自分であると主張していた。

 梯は当時の左翼の哲学について次のように批判していた。

 「甚だ多くの唯物論者が行為的自己の哲学的自覚を怠って、ただ知的自己の立場から物を言ってゐる」

 そして「対象の認識といふことは、実在の影像でなくして生命の表現でなければならない。ここに知識の客観性があるのである」との西田の主張を評価し、これを「媒介的、批判的に摂取する」ことによって「唯物論者が知ると言ふとき、それは実践的に認識することであり、身をもつて分析すること」ができる哲学体系を創造しなければならないと主張したのだ。

 「ミイラとりがミイラになった」三木とは違い、最後までマルクス主義者としての実践的立場を貫いた戸坂潤は、西田哲学を当時の世界的な思想状況のなかでは評価しつつも、マルクス主義哲学の立場から徹底的に批判した。

 1933年に『唯物論研究』で発表した「『無の論理』は論理であるか?」では、次のように西田哲学批判を展開している。

 戸坂はまず、西田が『善の研究』における「純粋経験」を発展させた「場所の論理」「無の論理」を整理する。

 「観念論的弁証法でも唯物弁証法でも、何かノエマ的に観念とか物質とかいふ有(存在)を置いて、そこで弁証法が成り立つたと見てゐるのであるが、さういふ有の論理では弁証法的矛盾は考えられない。本当の弁証法は、有が直ちに無に裏づけられてゐる、生即死、死即生といふ点にしか考へられないのだ、無の論理によつてしか考へられない、弁証法は自覚に依つてしか考へられない」

 大東亜戦争を肯定した西田の政治的立場もあり、戦前多くの左翼思想家たちは西田哲学への批判を試みた。

 しかし三木清などに見られるように「ミイラ取りがミイラになる」、つまり西田哲学のプロブレマティークに包摂され「転向」していく思想家達が数多く生み出された。

 そこには、当時の左翼思想が総体として抱えていた本質的問題が横たわっていた。
 これについて久野収は、『批評空間』第Ⅱ期第4号での柄谷行人、浅田彰との対談のなかで端的に述べている。

 「当時の哲学科左派の唯物論だと、根源的な矛盾を含んでいるわけです。認識論のほうから言えば、はなはだ受動的で、人間の意識が鏡になって物の実相を映すという模写論だけれども、実践論のほうから言えば、環境や人間を操作し、干渉して真理を暴き出し、さらには外界と内界を積極的に変革する方法になるでしょう。

 マルクスにもエンゲルスにも両方の要素があって、本当の統一は、各人にまかされているのではないか。それで、認識論中心派の、認識を実践に機械的に適用して成功させる、認識論としての弁証法とか、哲学のレーニン的段階とか言って、ソ連型マルクス主義を金科玉条として仰ぐ人たちに対して、京都の哲学者もマルクス主義者も、その問題でたいへん苦労をさせられていた。

 それで、主体と客体との関係とか、主体と主体との間柄的、場所的関係とか、認識論としての模写説と実践論としての変革説とが一見矛盾するように見える関係をなんとかつなぎ合わそうとして、三木清、戸坂潤、船山信一、梯明秀にしても、みんな苦し紛れの綜合主義、統一主義の方向を打ち出す」

 まさに、その苦し紛れの綜合主義、統一主義がいかなるものであったのか、そして西田哲学はかれらのその思想的営為にいかなる影響を与えたのか、以下概観してみよう。

 「純粋経験」を基本的概念としながら、西田は第二編では「実在」、第三編で「善」について、そして第四編では「宗教」について論を進めていく。

 第二編ではまず、「実在」についてこう語る。

 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」

 「普通には主観客観を別々に独立しうる実在であるかのように思い、この二者の作用に由りて意識現象を生ずるように考えている。従って、精神と物体との両実在があると考えているが、これは凡て誤である。主観客観とは一の事実を考察する見方の相違である、精神物体の区別もこの見方より生ずるのであって、事実其者の区別でない」

 西田は明確に主客の二元的対立図式を批判する。
 それでは、この二項対立をいかに止揚するのか。

 『善の研究』の第一編で西田が展開する「純粋経験」こそ、近代主客図式を克服せんとする西田哲学の最重要の基礎概念だ。

 西田は、西洋的な「有の哲学」に「無の哲学」を対置しようとした。
 その背景について下村寅太郎は次のようの述べている。

 「『善の研究』の、やがてまた西田哲学一般の基礎には禅的体験がそれの重要な思想動機の一つとして存するように思われる」

 実際、西田は金沢時代の十年間、休暇となれば常に禅堂において打坐し、「打坐越年」が当たり前だった。
 家庭で正月を迎えたことなど殆どなかったと言われている。

 明治から昭和にかけて、日本思想界に最も大きな影響を与えた思想の一つは西田哲学であろう。

 戦前マルクス主義者だった戸坂潤は、1933年に執筆した『現代のための哲学』において次のように紹介している。

 「この哲学(故左右田博士は之を西田哲学と名づけた)は、単に我が国だけに於ける代表的な哲学であるばかりではなく、公平に云って、世界的水準から云っても、指導的な位置を占めると云って好いだろう」

 「欧州の、又は主に独乙の、所謂哲学と名の付く哲学が、或る根本的な理由から、全く行きづまって了っている今日では、そして『ハイデッカー』や『ヘーゲル復興』の名を聞いて、溺れる者が藁を掴むように、之にしがみつこうとしている今日の国際的哲学界に於ては、西田哲学の展開と前進とはいよいよこの哲学の優越性を高めねばならないわけである」

 これだけの影響力を有した西田哲学だが、戦争中天皇を頂点とする国体と大東亜戦争を肯定する体制翼賛イデオロギーとなったことで、戦後の日本思想界においてはほとんど内容的な再検討を経ないまま放置された。

100万部を超えるベストセラーとなった『日本語練習帳』(大野晋 岩波新書)。
 発売当時の朝日新聞に、著者は次のように記した。

 「いわゆる『日本語教本』は著者が一方的に語り続けて、著者自身が自分にも難しい事柄を幅広く、これも大事これも重要と繰り出して行き、読者に対応しきれなくさせていることはなかろうか」

 「私は語りかけて答えを交わすという形式によって、日本語についての読者の素朴な『知の力』を本当の意味で開花させようとした」

 「誰でも知っている、分かっていると思っている言葉について、その理解がどんなに不確かであったかを自分から気づくようにと書いて行った」

 日常の感覚から、日本語について学び直すことができる面白い本だ。

 航空の世界では「クルー・コンセプト」の概念が極めて重視される。

 「個々のパフォーマンスではなく、コックピット内のマシンとクルーすべての組み合わせから生まれるパフォーマンス(トータル・パフォーマンス)を中心にして考える」

 「機長がいかに優れた技量の持ち主であったとしても、他のクルーの技量をうまく発揮させることができなかったり、あるいは活用することができなかったら、フライト全体のパフォーマンスはその機長一人分のパフォーマンスを超えることはない」

 言うまでもなくこのコンセプトの前提は、個々のクルーメンバーには「クルーメンバーとして必要十分な『基本的技能と知識』が備わっている」ことだ。
 いくらクルーのリソースを引き出そうにも、そもそも個人レベルでのリソースの蓄積がなければクルー・コンセプトは「絵に描いた餅」にしかならない。

 その上で以下のアプローチをする。

 「一人の人間の能力にはどうしても越えられない限界があり、その限界を乗り越えるための最も有効な手だての一つが、複数の人間によってチームを組むことなのです。そして、そのチームのトータル・パフォーマンスを高めるために、個人個人が一体どんな考え方をして、どんな行動をとればいいのか」

 1977年3月27日、スペイン領テネリフェ島にあるロスロデオス空港で、史上最悪の航空機事故が発生した。

 離陸しようとした253人の乗客を乗せたKLMオランダ航空のジャンボ機が、378人の乗客を乗せたパンアメリカン航空のジャンボ機と滑走路上で衝突、583人もの乗客、乗員が死亡した。

 世界の航空機事故は、テクノロジーの飛躍的な進歩によって1975年頃までには大幅な減少率を示したが、その後はほぼ横這い状態となっている。

 航空機事故の原因究明作業を行ってきたIATA(国際民間航空輸送協会)は1988年に、航空機事故の内の約80%が、コックピットクルーの行動とパフォーマンスにその要因があるとの調査研究報告を出した。

 しかもその80%の中には、コックピットクルー個々の知識や技量には関係なく、しかも機材などに致命的な不具合が無いにもかかわらず起こってしまったケースが数多く含まれていることが明らかとなった。

 どんな組織であれコミュニティであれ、人間の協働が成立する場所には、必ずリーダーシップが求められる。

 組織を活性化させるリーダーシップとは何か? その問いは様々な企業で問題とされ、書店などでもハウツー本が山積みだ。

 『機長のマネジメント』(村上耕一 斉藤貞雄 共著 産能大学出版部)は、旅客機のコックピットにおけるリーダーシップの在り方、クルー同士の人間関係などをトータルに検証する興味深い内容だ。

 言うまでもなく、何百人という乗客の生命を預かってジャンボなどの大型旅客機を操縦するパイロットは、職業的に最も高度に訓練され、たった一度の失敗も許されない責任を背負って働いている。

 本書が描くクルー・リソース・マネジメント(CRM)は、この過酷なストレスのなかで極めて高度な技能を必要とされるパイロットたちが、いかにしてチームワークを保ちながらヒューマンエラーを克服するのかを課題とするもので、一般の企業運営などにも導入されている。

 「構造改革」の名の下に、消費税が大幅にアップされようとしている。

 税金の無駄遣いは一向に減らず、国と地方自治体の借金は1000兆円を超えている。
 そのしわ寄せが、私たちの日々の生活にさらに重くのしかかってくる。

 そんな現実を前にただ嘆いたり、ぼやいたりしているだけでは意味がない。
 自分たちの手で新しい経済と暮らしの在り方、人と人とのネットワークを創り出せないか?

 小泉構造改革と並行するかのように全国に広がった地域通貨は、こんな問題意識から生まれてきた。

 本書では、ゆっくりではあっても確実に、全世界の様々なコミュニティーで普及しはじめている「地域通貨」について、わかり易く解説している。

科学から価値は生まれない

 分子遺伝学に基づくモノーの見解では、生物における合目的性は、生物のもつ複製の不変性から派生する第二次的な特性である。

 現在の世代のもつ構造を次の世代へと正確に複写すること、ただそれだけが生物の目的なのである。

 だとすれば、進化と考えられているものは、本来正確であるべきその複写過程で生じたバグ=「まったく盲目的な偶然のなせる業」にすぎないことになる。
 この概念は、多くの宗教的イデオロギーや哲学体系を根底から脅かすとモノーは指摘する。

生物の進化は偶然性の連続

 ダーウィンが『種の起源』で進化論を提起する以前、ヨーロッパではキリスト教的世界観、人間観が支配的だった。

 この世界は神の創造したものであり、生物も人間もすべての存在は自ずから神の意志、目的に沿ったものとして意味付けられていたのだ。

 当然にも、様々な動植物が存在する自然界のピラミッドにおいて最高位に位置するのが人間存在であり、人間が他の生物と異なって人間である所以は、神によって与えられた、デカルト的な精神(=生得観念)をもっているからとされた。

 こうしたキリスト教的世界観においては、歴史は「神の王国」へと至る進歩と発展のプロセスであり、明確な合目的性を有したものとして考えられたのである。

生物とは何だろうか?

 そもそもこの宇宙のなかで生物はいかなる存在として規定すればよいのか?
 現在のところ地球外生命体は発見されておらず、生物はこの地球上でのみ観察されている。

 問題は、普段何気なく私たちが下す「これは生物、これは生物ではない」との判断の根拠だ。

 例えば一定の条件のもとで変化し結晶構造(規則性や連続性)を持つにいたる岩石と、ごくミクロのレベルで細胞分裂を繰り返す細菌をどうやって区別するのか?
 表面的な現象としては極めて似ているが、なぜ前者は生物ではなく、後者は生物だと判定できるのか?
 この問いに答えることは意外に難しいとモノーは問題提起する。

現代生物学が投げかけた問い

 副題に「現代生物学の思想的な問いかけ」と記されたジャツク・モノー著『偶然と必然』(みすず書房)。

 1970年にフランスで刊行されるやいなやベストセラーとなり、生物学の領域だけでなく、哲学界や宗教界をも含めた一大論議を巻き起こした現代生物学の名著だ。

 1965年に「酵素とウィルスの合成の遺伝的制御の研究」でノーベル医学生理学賞を受賞したモノーは、現代生物学における当時の専門的な知見を駆使しつつ、科学やイデオロギー、そしてより根本的には人間存在そのものへの深い哲学的洞察を行った。

 樋口健二は1937年、長野県富士見町に生まれた。
 東京総合写真専門学校を卒業し、その後同校の助手を経てフリーカメラマンに。

 この写真集には、1973年から1995年までに日本各地の原発建設地(予定地も含む)で撮影した写真が収められている。
 それはまさに、日本の原発史の真実の姿をあぶり出すものだ。

形而上学的合理主義は圧政を生む

 かつてのソ連邦のようなスターリン主義国家のみならず、「自由と民主主義」を標榜している社会においても、なにゆえ権威主義的な一元論が支配的となりつつあるのか?

 バーリンは1953年にロンドンで行った講演記録「歴史の必然性」のなかで、「一般に現代思想において二つの強力な主義・学説は、相対主義と決定論である」と指摘し、この二つの主義・学説の持つドグマに対して自覚的にならなければならないと強調した。

20世紀における思想の危機

 イギリス経験論の流れを継承する現代の政治哲学者、アイザィア・バーリン『自由論』(みすず書房)は、20世紀の思想と文明を根底的に捉え返そうとする名著だ。

 ここでバーリンは、形而上学的な歴史の必然論や一元論、あるいは科学主義的な真理観を拒否し、人間にとって真理とは何であり、そして価値とは何か、自由とは何かを深く洞察している。

 深刻化する地球環境破壊、旱魃や洪水などの自然災害の増加、増大する地球人口、食糧と水の絶対的不足・・・

 今後ますます世界は不安定となり、各地で紛争や内戦が多発していく危険性がある。

 本書は、無辜の市民が犠牲となっていく悲惨な現実から目を反らさずに、私たちに何が出来るのかを問い続けようと提起している。

 その意味では、日本の反戦・平和運動が掲げてきた一国平和主義、絶対平和主義を真剣に問い直し、どのように発展させていくべきかを問題提起している。

 2006年6月に発表された「インターネット白書2006」では、日本のインターネット人口は7300万人を突破、一般家庭におけるブロードバンド普及率は41・4%に増加したと報告された。

 3年前ですらブログに対する認知度は98・6%、認知している人のうち25・3%が自からブログを公開していた。

 当時爆発的に普及しつつあるネット社会に関して極めてポジティブな主張を展開してベストセラーとなったのは、梅田望夫の『ウェブ進化論-本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書)だ。

 しかし最近梅田は、こうしたネットに関する楽観的な未来像は、日本では実現しなかったと感じているようだ。
 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html

 自ら取締役を務めるはてなに関してこんな発言をして批判を浴び炎上している。

 「はてブのコメントには、バカなものが本当に多すぎる」

市場原理主義の限界

 ハイエクの中心的な問題意識は、初期のイギリス経験論を引き継いでいる。

 王や教会権力による一元的な善の押し付け、あるいは経済活動への規制や介入に思想・信仰や経済活動の自由を対置し、それが人間の幸福に結びつくはずだと考えたわけだ。

 ゆえに彼は「自生的秩序」としての市場経済に全面的に依拠する。
 しかし過度な市場経済の礼讃は、特定の大資本や階級による極めて一元的な社会支配を容認することにつながる。

利己性と公益性

 岩波書店『哲学小辞典』は、利己主義(egoism)に関して次のように解説している。

 「(1)もっぱら自己の利益のみを大切にして、他人の利益を自分の利益に従属させ、万事をこの観点から判断する態度。(2)個人の利益から出発して道徳の観念や原理を説明しようとする倫理説」

 功利主義の倫理説は後者に属し、また「利己主義的倫理説は必ずしも(1)の意味の利己主義を主張するものとはかぎらない」とも指摘している。

イギリス経験論の系譜

 『市場・知識・自由』では、ハイエクの問題意識はイギリス経験論の系譜に位置することが明らかとなる。

「設計主義的合理主義」の限界

 世界的金融危機のなか、フリードマンなどに代表される「新古典派」が主張してきたネオ・リベラリズムへの批判が強まっている。

 国家が出来るかぎり経済過程に介入することは避け、市場原理にまかせて自由な競争を行うことが経済の発展につながるとするネオ・リベラリズム。
 市場原理主義では政府の役割放棄にしかならず、格差や貧困は放置されるだけだ。

 しかし、そこから市場経済そのものまでも串刺し的に否定することは間違っている。
 過度な自由主義が大きな問題を抱えていることは言うまでもないが、だからといって市場経済を否定しても問題は解決しない。
 ましてや社会主義的な計画経済の不可能性は歴史的に明らかであり、市場が果たす積極的な役割についてはきちんと踏まえておく必要がある。

官僚制とカリスマ待望

 原子力の安全性など、様々な社会的、政治的問題について、その問題を所管する省庁と直接交渉する機会がある。

 多くの場合、直接対応に出てくるのは、実質的には当該の問題について何の権限も持たない下級官吏だ。

官僚制を必然化する近代国家

 ウェーバーは、彼の社会科学の方法論である「価値自由」の立場から、発達した近代国家、特に資本主義が発達した国家なり社会においては、官僚制の発達と完成は不可避だと指摘。

 国家であろうと企業であろうと、経営の効率性、合理性を追求するならば、官僚的制度の確立は避けられないと主張する。

近代日本と官僚制

 戦後日本社会の中で、自民党の利権政治と一体となって日本の行政を牛耳ってきた官僚機構は、今や完全に行き詰まった。
 官僚の腐敗と度重なる不祥事は、日本の官僚機構が根源的な危機に陥っていることを示唆している。

 しかしこうした危機の打開を、強烈な個性や能力を持った政治指導者の登場にのみ求めることは危険だ。
 同時にそれは決して問題の本質的な解決にはなりえない。

 評論家・西部邁の経歴は実に興味深い。
 60年安保闘争の際には東大自治委員長、全学連の中央執行委員として活躍したが、その後きっぱりと左翼と訣別し、対極とも言うべき「コンサバティブ=保守派」のイデオローグとして活躍してきた。

合衆国憲法に記された「進歩条項」

 レッシグは、1998年に成立した著作権延長法(Sonny Bono Copyright Term Extension Act,CTEA)が、憲法違反であると訴えた裁判を闘う。

 エルドレッド裁判と呼ばれるこの裁判は、アメリカの連邦最高裁において2002年から2003年にかけて争われた。

文化的創造性を育むためには

 IT化が日本より10年は先を行くインターネット発祥の地アメリカ。
 アメリカの憲法学者ローレンス・レッシグは、インターネットの普及に伴うテクノロジーの高度化により、創造的な自由な文化の可能性が奪われつつあると警鐘を鳴らしている。

 『失敗の本質』(中公文庫)は、旧日本軍の戦史分析を通じてその敗因を抉り出し、現代のあらゆる組織への教訓を導き出そうと、様々なジャンルの専門家が共同研究した本だ。

 イギリス・ブレア政権の掲げた政策は、「第三の道」と呼ばれてきた。
 これに大きな影響を与えたのは、ニューレーバーのブレーン、社会学者のアンソニー・ギデンズだ。

メリトクラシー(能力業績主義)

 ブレアは首相に就任する前の労働党大会で、こう強調した。

 「私にやりたいことは三つある。それは、教育、教育、教育だ」

 「結果の平等」ではなく、「機会の平等」を目指すニューレーバーの「社会的包摂」戦略にとって、働くために必要な知識や技術を、恵まれない環境に育った人に提供することこそが鍵となる。

福祉から労働へ(welfare to work)

 サッチャーは、「小さな政府」を作るにあたって、「社会などというものは存在しない」と語った。
 社会=コミュニティーで人々が相互扶助するのは幻想だとするこうした考えの下で、なんでもかんでも「官から民へ」と移行させてしまったら、そもそも政府は何をすべきなのか?
 「夜警国家」を理想とする市場原理主義は、政治そのものの否定にしか行き着かない。

サッチャリズムに対抗するニューレーバーの登場

 イギリス保守党の「鉄の女」=マーガレット・サッチャーは、1979年から90年まで首相に就き、「イギリス病」とまで呼ばれた経済的衰退を克服すべく、徹底した「構造改革」を行った。

 政策理念は小泉改革同様の市場原理主義であり、鉄道、電話、水道などの公益事業が次々と民営化された。
 規制緩和も金融を中心に産業の各分野で進められ、労働市場も規制緩和されたことで、労働者の権利は奪われていった。

 一方所得税の累進制は大幅に緩和され、富裕層の支払う所得税が引き下げられ、法人税の減税も進められた。
 金持ちと企業を優遇する政策だ。
 小泉改革とほとんど同じことをサッチャーは80年代に実施した。

「大きな政府」でも「小さな政府」でもない「第3の道」

 小泉「構造改革」は、急速に日本をアメリカ型の弱肉強食社会に転換し、今や格差や貧困は重大な社会問題となっている。

 改革の中心的なイデオローグであった竹中平蔵氏は、フリードマンなどに代表される「新古典派」の考え方を掲げた。

 アダム・スミスなど古典派経済学が提唱した「レッセ・フェール」(自由放任)。
 政府が経済過程に介入することはできる限り避け、市場原理にまかせて自由な競争を行うことこそが経済の発展につながるとの考え方だ。

 1999年アメリカ・シアトルで開催されたWTO会議は、会場周辺に詰めかけた10万人以上の労働組合や社会運動・環境運動のアクティビスト、アナーキストなどによって包囲された。
 結局開会式会場に各国の代表が入ることが出来ずに中止に追い込まれたのだ。

 最近の自転車ブームの波はますます強まっている。
 自転車利用に関する効能を記した『自転車市民権宣言』(リサイクル文化社)を読んで、あなたもツーキニストになろう。

 関東大震災から80年以上が経過し、いつ来てもおかしくないと言われる首都直下型地震。
 さらに最近は、東海、東南海、南海地震が連動して起きる可能性も指摘されている。

 『大地動乱の時代』(岩波新書)の著者石橋克彦氏は、1970年代にプレートテクトニクス理論により、周期的に太平洋岸での巨大地震が起きることを発見した地震学者。
 本書では、既に日本は地震の活動期に入り、未曽有の原発震災が起きる危険性があると警鐘を鳴らしている。

 マイケル・ムーア監督は、ドキュメンタリー映画『華氏911』でブッシュ政権を痛烈に批判した。
 そのネーミングの元になっているのは、アメリカの幻想小説家、SF作家のレイ・ブラッドベリ(Ray Bradbury)が1953年に発表した長編SF小説『華氏451度』だ。

 このSF小説は、言論弾圧や思想統制、利己主義と物質主義、快楽主義の蔓延、マスコミや商業ジャーナリズムの弊害、IT化による人間性の喪失など、考え得る限りの負の未来社会を描いた。
 
 物語の主人公は、ガイ・モンターグ。彼はファイア・マンの仕事に就いている役人だ。
 ファイア・マンとは、火を消す消防士ではなく、人々が隠し持っている本をみつけては燃やしてしまう「焚書官」を指す。
 ゆえに小説の冒頭には、次の言葉が記されている。

 「華氏451度―本のページに火がつき、燃えあがる温度・・・」

 世界各国では従来の左翼運動の枠を超えた「新しい社会運動」が発展している。
 『市民の政治学』―討議デモクラシーとは何か―(篠原一著 岩波新書)は、こうした新しい社会運動の方向性を詳しく紹介している。

貴族政治は賢明に行動する!?

 19世紀初頭にトクヴィルが預言したこと、突き出した問題は、20世紀を通じて実証されてきた。

 トクヴィルが「貴族主義は民主主義的自由主義に勝利し得ない」と預言した通り、一握りの指導者による目的論的、設計主義的な社会建設の典型だった社会主義は完全に破産した。

ヨーロッパ貴族主義を凌駕したアメリカの大衆民主主義

 没落貴族の末裔としてフランス革命後の激動を経験していたトクヴィル。
 彼は、1831年から32年にかけて独立後のアメリカに渡り、建国の息吹が吹き荒れるアメリカ社会を見聞した。

 この旅を通じてトクヴィルは、民主主義と商業主義を標榜する社会の到来は不可避であり、その結果ヨーロッパ的貴族主義よりもアメリカ的な大衆民主主義が勝利すると喝破したのである。

EUを生んだ「平和のための連邦論」

 統一通貨ユーロ(EURO)を導入したEU(欧州連合)は、これまでにない国境を超えた政治、経済体制を確立しつつある。

 ヨーロッパ合衆国の建国までをも射程に入れた新たな国家連合は、アメリカの一極的な世界支配に対抗する政治力学だけでは計れないビジョンを有している。

 2004年1月、琉球新報は外務省機密文書「地位協定の考え方」を入手し、全文をスクープした。

 同文書は、1972年の沖縄本土復帰の翌年、1973年4月に作成され、作成には外務省条約局とアメリカ局が関わっている。
 表紙に「秘 無期限」の指定印が押された機密文書だ。

ホンダがアメリカ市場で成功した鍵は?

 ミンツバーグは、アメリカのオートバイ市場でイギリス車との競合に打ち勝ったホンダの成功について分析するなかで、各スクールを評価する。

 英国政府の依頼を受けて、ホンダの勝利の根拠を分析したボストン・コンサルティング・グループ(BCG)の分析は次のようなものだった。

 「日本のオートバイ産業、なかでもマーケット・リーダーのホンダは、一貫した構図を示している。日本の製造メーカーの基本的理念は、資本集約型で高度にオートメーション化した技術を駆使することで、車種ごとの大量生産・大量販売が可能になる。彼らのマーケティング戦略は、これらの大量生産車種の開発に向けられ、したがってわれわれが考察したとおり、成長性とシェアの獲得に多くの関心が寄せられている」

 BCGは、ホンダが資本集約型の大量生産車種を売り込む明確な戦略でアメリカ市場に参入したことで成功を収めたと分析している。
 この分析は、かつて日本の輸出主導型製造業の躍進の根拠として最も一般的に言われていたことでもある。

 しかし、実際にアメリカ市場への参入にチャレンジしたホンダのマネジャーたちは、次のように語った。

強力な起業家の多くは最後に失敗する

 戦略マネジメントは非常に複雑で微妙なプロセスであり、一朝一夕で主体化できるようなものではないし、ましてや計算機で叩き出せる類のものでもない。

 戦略マネジメントのこうした困難性を考えたとき、戦略形成を成功した起業家のメンタル・プロセスとして捉えるアントレプレナー・スクール(THE ENTREPRENEURIAL SCHOOL)の持つ位置は独自であると共に、ある意味で最もリアリティを有しているかもしれない。

 寺島実郎氏は、現在三井物産戦略研究所所長、財団法人日本総合研究所理事長、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授を務め、永らく米国で仕事をした経験をもつ。

 その寺島氏が9・11テロ後のアメリカを論じたのが『脅威のアメリカ 希望のアメリカ』(岩波書店)である。

 昨年秋、リーマンショックを発端に世界金融危機の嵐が巻き起こった。
 その最中に出版された岩波ブックレット『世界金融危機』。

 著者の一人である金子勝氏は、早くから未曽有の金融危機到来に警鐘を鳴らし、「悪魔の予言」と恐れられていた。
 この本を読めば、世界金融危機は未だ収束していないことがよく分かる。

コンピュータは戦略をはじき出せない

 目標到達のコンセプトを明確化し、その理念から現実にアプローチしようとするデザイン・スクール。
 しかし現実は常に不確実性に満ちており、理念と現実は常に乖離する。
 この乖離をどう埋めるのかを巡るアプローチは大きく言って三つに分かれる。

デザイン・スクールがはらむ設計主義の限界

 『戦略サファリ』の内容の大半は、戦略マネジメントを巡る10の学派の紹介とその批評に当てられている。

 ミンツバーグが真っ先に取り上げるのは、デザイン・スクール(THE DESIGN SCHOOL)だ。
 この学派は、戦略マネジメントの研究に最も影響力を与えつづけてきた「コンセプト構成プロセスとしての戦略形成」に焦点を当てている。

 石原慎太郎が製作総指揮、脚本を手がけた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』。
 これを観て即座に思い出したのは、映画で描かれた知覧航空隊の特攻隊員として戦死した上原良司のことだ。

 特攻隊員から母のように慕われた富屋食堂の鳥濱トメさんは、「たった一人だけ日本が負けると言った人がいました。上原大尉でした」と語っていた。
 しかし映画では、「日本は負ける」と語ったのは別の隊員のように描かれている。

 『あゝ祖国よ恋人よ』(上原良司 信濃毎日新聞社)を紐解けば、その理由がわかる。上原が残した日記と遺書の存在は、石原にとって余りに都合が悪かったからだ。

  天皇制ファシズムの下、日本が戦争に突き進んだ1940年代。

 学徒出陣で戦地に動員された青年たちの多くは、哲学、文学に精通したインテリたちだった。

  彼らに「大東亜戦争」の意義を説いたのは、京都学派を中心とする日本の代表的知識人だ。

 そのため京都学派は戦後、軍国主義、天皇制ファシズムに屈服して戦争に協力したと批判された。

 しかしその思想がなぜ多くの青年の心を捉えたのかについては、きちんと内容的に検証されたわけではない。

 戦後日本屈指の哲学者廣松渉は、「近代の超克論」に内在化しつつそれを再検討した。

 それが『<近代の超克>論』(講談社学術文庫)にまとめられている。 

戦略に関する議論は両刃の剣

 国や企業、そしてNGOなどあらゆる組織では、「目標は何か? どうそれを達成するのか?」が常に明確にされる必要がある。

 しかし、時々刻々と変化する状況のなかで、組織の戦略的目標や方向を確定することは、最も困難な作業だ。

 ゆえに戦略マネジメントの問題は、多くの組織にとって極めて重大な関心事となる。
 厳しい競争にさらされている企業、様々なミッションに取り組むNGOやNPO、そして極限的な状況での行動を要請される軍隊などで、あらゆる組織がこの問題を研究している。

 ここでは、欧米で経営学のグル(世界的権威)の一人として高く評価されているヘンリー・ミンツバーグ(Henry Mintzberg)の著書『戦略サファリ』(STRATEGY SAFARI:A GUIDE TOUR THROUGH THE WILDS OF STRATEGIC MANAGEMENT)(東洋経済新報社)を参考に、戦略マネジメントについて考察する。


 JR東日本で新幹線運航本部長を務める万代典彦氏は、『失敗に学ぶものづくり』第4章「大量輸送分野 鉄道の安全は衝突事故の繰り返しによって高まった」のなかで次のように述べている。

 産業革命以降のわずか数百年の間に、人類は限りある地球資源を浪費し尽くそうとしている。経済成長主義から抜本的に脱却しなければ、われわれは次世代への責任を果たすことはできない。

 そもそもこれまでの経済成長を支えてきたパラダイムは、資源や環境は無尽蔵に存在することを前提に、労働によってそれに付加価値を与える、つまり価値の源泉は労働にあるとする考えだ。
 
 ゆえに資源はどんどん浪費していいから、労働生産性を上げることが至上命題とされてきた。その結果現代社会は恒常的に生産過剰、供給過剰に陥り、慢性的に労働力は余っている。

 さらに悪無限的に労働生産性の向上を目指せば、失業者や低賃金で使い捨てのパート・アルバイトはますます増大し、ワーキング・プアは深刻化する。正規雇用労働者も、人減らしのなかで過重な労働を強いられ、過労死やうつ病に追い込まれる。

 現代社会では働けば働くほど苦しく、不幸になる。このパラドックスは、労働生産性の向上こそが価値を増大させると考え続ける限り打開できないのである。

 今やこのパラダイムそのものを見直し、労働生産性ではなく環境効率性を重視する経済と社会へと構造転換することこそが必要だ。

 白州次郎は、戦後GHQと日本政府の間で通訳を務め、日本国憲法制定過程に深く関わり、マッカーサーをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた人物。

 彼は日米開戦前から日本の敗戦を確信していた。だからこそ首都東京から離れた鶴川村(現東京都町田市)に家族そろって疎開し、そこで農業を営むことになる。
 間違いなく首都空襲と食糧危機が訪れることを理解していたからだ。

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プロフィール

渡瀬義孝 2008年洞爺湖サミットの開催に合わせ自転車で東京~洞爺湖~札幌1500キロを走破したツーリング洞爺湖に参加。持続可能な未来へ向けエコロジーでリベラルなライフスタイルを! yoshitaka@ihope.jp

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