ジュマと日本の関係

CHTでの人権抑圧の実態

 チッタゴン丘陵地帯(Chittagong Hill Tracts)は、バングラデシュの南東部に位置し、インド、ビルマと国境を接している。長野県とほぼ同じ面積のこの地域には、15世紀から19世紀にかけてビルマやインドから様々な民族が移住し、現在では言語、文化、宗教的に異なる13の民族集団が存在する。これらの先住民族の総称をジュマと言うが、共通の特徴はモンゴロイド系で非イスラム教徒であり、ジュム耕作(焼き畑耕作)に依存してきたことだといわれている。

チッタゴンの丘陵地帯の位置 チッタゴン丘陵地帯内の地図

 16世紀には一時独立王国となった時代もあったが、以降はムガル帝国の支配下、さらにイギリスの植民地支配下となった。この時代、イギリスの分割統治政策によって1900年にはCHT条例が制定され、CHTへの外部からの入植と永住、丘陵民以外の土地購入が禁じられた。日本で早くからジュマ民族への連帯運動を担ってきた岡山大学助教授の真実一美さんによれば、現在ジュマ民族が求めているのはこの地域の様々な自治権、自決権を認めたこの1900年条例に立ち返ることであり、バングラデシュからの分離・独立ではないという。

歴史的に言ってもジュマ民族の多くは、かってパキスタンからのバングラデシュ独立を支持してベンガル人と共にパキスタンと戦ったのである。にも関わらず、1971年の独立直後からバングラデシュ軍はCHTへ進駐し、さらに平地に住むベンガル人四十万人をCHTに開拓移民させる計画を軍事力を背景に強引に推し進めてきたのだ。

バングラデシュは旧東パキスタン時代から旧西パキスタン(現在のパキスタン)に経済的権益を奪われ続け、しかも平野部の海抜が低く、洪水被害が多いことから最貧国とされてきた。パキスタンからの独立戦争時には世界的な連帯運動なども行われたが、独立後にこの国が抱えてきたCHT問題は、世界の少数民族問題のなかでも特に深刻なものだ。

ベンガル人の入植計画に対して、ジュマ民族による抵抗運動が始まり、当初合法化されていたJSS・チッタゴン地帯人民連合党が非合法化されるなかで武装闘争、非合法闘争が行われてきた。ベンガル人による弾圧は苛烈を極め、1997年のバングラデシュ政府とJSSの和平協定締結までの間に直接殺害された先住民は三万人(十万人という説もある)を上回るとも言われている。特に1992年に起きたロガンの大虐殺では、七百人以上のジュマ民族が殺戮されたと言う。

このプロセスでは、JSSの武装組織であるシャンティー・バニヒ(平和の軍隊)による抵抗闘争でベンガル人の入植者や軍人も三千名以上殺されており、CHT問題は泥沼の様相であったのだが、1997年12月にようやく和平協定が締結され、翌98年の3月にはシャンティー・バニヒの武装解除が行われた。この和平締結の「功績」で、バングラデシュのシェイク・ハシナ・バセド首相は98年度のユネスコ平和賞を受賞した。

和平協定はジュマ民族の権利を認めているか?

 二〇年以上に渡ってCHTに吹き荒れていたジュマ民族への弾圧や抑圧は、97年の和平協定締結によって改善されたのであろうか? 残念ながら手放しでは喜べない現実があるようだ。

 締結された和平協定では、地域評議会(Regional Council)という、先住民族を中心とする新しい自治組織が作られることになり、先住民族の一定の自治権が認められたほか、先住民族を大臣とするCHT省という新しい省庁が作られた。

最大の土地問題についても、ベンガル人入植者による先住民族の土地収奪問題の解決を図るために土地委員会が設けられ、CHTに点在する治安軍の一時的なキャンプがCHT内の六つの兵営に段階的に撤収されることにもなった。

しかし、当初からJSSが要求していた立法府を有する州としての自治権、国境保安軍以外の全ての治安軍及びベンガル人入植者の撤退、ジュマ民族の権利に関する憲法上の規定などは認められなかった。何より、和平協定で定められた範囲内の治安軍の段階的撤収も一向に行われておらず、ジュマ民族への土地の返還なども行われていない。

こうした状況下、CHTでは丘陵人民会議、丘陵学生会議、丘陵女性連盟が統一民主人民戦線(UPDF)を結成して、より実効性ある自治権の獲得を目指して運動を継続しているが、バングラデシュ政府や軍による彼らに対する弾圧は日常的に行われている。

経済的に困窮しているバングラデシュにおいて、その困窮からの脱却を目指して丘陵地帯への入植を進めようとするベンガル人と、自らの文化的・民族的アイデンティを守り、先住民族としての権利を主張するジュマ民族との対立は、一朝一夕に解決できるものではないのかも知れない。とりわけ、土地問題という経済的利害対立が根底にある以上、バングラデシュという国そのものが抱える貧困問題が解決されない限り、両者にとって満足のいくような解決はそう簡単ではないだろう。

CHT問題の解決が非常に大きな困難を伴う道だとしても、軍事的な対立のエスカレート、ジェノサイドとも呼ぶべき少数民族への弾圧などを再び激化させてはならないことは確かだ。そのためには当事者の粘り強い話し合いに期待するしかないが、そのプロセスを保障するためにも、国際世論の厳しい監視が不可欠だ。

とりわけ、既に述べたように日本はバングラデシュへの最大の援助国だが、1992年に起きたロガンの大虐殺の時にも日本政府はほとんど問題にしようともしなかった。軍事政権や人権抑圧を行っている国にはODA援助を行わないなどというのはただのお題目にしかすぎなくなっている。

カプタイ・ダム建設が奪った貴重な耕作地

 「我が国の政府開発援助(開発途上国援助)の実施状況」(1999年度)を見ても、アジア地域における日本の無償資金協力の最大の供与国はバングラデシュであり、99年だけで2億ドル、実にアジア地域全体の援助額の内20%以上がバングラデシュ一国へ行われていることが分かる。

 周知のように、1992年に閣議決定された日本の政府開発援助大綱では、ODAを行う上での原則として以下の四原則が定められている。(1)環境と開発を両立させる。(2)軍事的用途及び国際紛争助長への使用を回避する。(3)開発途上国の軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造、武器の輸出入等の動向に十分注意を払う。(4)開発途上国における民主化の促進、市場指向型経済導入の努力並びに基本的人権及び自由の保障状況に十分注意を払う。

 バングラデシュにおけるジュマ民族への人権抑圧は明らかにこの原則に抵触するはずだが、先の「実施状況」中の国別援助計画の概要−バングラデシュでは、ODA大綱原則との関係を「総じて望ましい方向に向かっている」と一言だけ触れているだけだ。そして、こうした認識のもとに、国際協力銀行(JBIC)はCHTのカプタイ・ダム拡張のための資金供与を行おうとしているのである。

カプタイ・ダムは、CHTを流れるカルナフリ川を堰きとめて、東パキスタン時代の1957年から63年にかけてアメリカの援助で建設されたものだ。東京都の面積の二分の一にも相当するこのダムの湖面は、最も肥沃なCHTの一般耕作地の約四割を水没させ、十万人の土地が奪われて多くのジュマ民族が開発難民となった。

 バングラデシュ独立後の1979年から82年にかけては第二ダムの建設が日本の援助で行われ、今またこれを拡張する工事が強行されようというのだ。この拡張工事が行われれば、ダム湖の水位がさらに上昇し、二万五千から三万五千エーカーもの耕作地が水没し、何千ものジュマ民族が家と生活を失うことになる。ただでさえ土地問題で紛糾するCHTに、新たに開発難民を生み出し、ますます和平協定の実施を困難にさせるものでしかないのである。

 少なくとも、援助主体である日本政府、ないしは国際協力銀行自らが現地調査を行い、ジュマ民族へのきちんとした計画の説明を行い、同意を得なければならないはずだが、それはすべてバングラデシュ政府任せだ。開発援助の資金供与さえ行えば後は知らないという態度は決して許されるものではない。

 私たちの税金が回りまわって、人権抑圧と環境破壊、多くの開発難民を生み出すプロジェクトに供与されてしまっていいのだろうか?


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