HEART OF JUMMA

     バングラデシュのなかで黙殺されてきた民族の叫び

マニュフェスト・オブ・ジュマ   (シシコ・チャクマ

 愛なる聴衆の皆さん、読者の皆さん、者の皆さん。これからお話することは、厳しい抑圧のなかで、これまでほとんど声に出すことすら出来なかった私たちのジュマ民族の本当の気持ちです。ジュマ民族の本当の心を知ってください。

私たちの土地を返してください。

私たちの国を返してください。

私たちの権利を返してください。

私たちの生活を返してください。

私たちは生き残りたい。

私たちは、尊厳ある人間として生きたい。

私たちは、自由に発言したい。私たちは自由に行動したい。

 なぜなら、私たちは人間としての権利を持っているはずだから。

しかし、私たちは、私たちの国でいかなる権利も持ってはいないのです。

ジュマの悲しみと苦しみ

私たちは、バングラデシュのチッタゴン丘陵地帯に住むとても小さな、そして世界に殆ど知られていないコミュニティ、ジュマ民族です。

私たちは、オーストラリアの先住民のアボリジニや、ネイティブ・アメリカの人々のような境遇にはなりたくないのです。人類学の博物館の陳列品になることで自分達のアイデンティティを維持したくはないのです。

私たちの存在は、歴代のバングラデシュ政府によって継続されてきた民族浄化と、私たちの土地を奪った後に行なわれてきた、政府が後押しする大規模な植民政策、私たちを強制的に移住させることによる人口減少によって、存亡の危機に瀕しています。

私たちの国において、私たちは生命を維持し、生活するための基本的な保障を持っていません。私たちは、言論の自由、移動の自由だけでなく、その他の基本的な人権などをすべて持っていないのです。

私たちは、可能な限り、様々な国々へ逃げ出しています。

私たちは、わずか60万人に過ぎない小さなコミュニティですが、そこには、互いに独特の、また一方では似通った文化、人種、生活習慣を持った10の民族グループが含まれています。

1950年代からこれまでに、およそ60万人の他民族が、私たちのコミュニティを破壊するために不法に私たちの土地に植民し、そして10万人の軍隊が、私たちの生存のための運動を破壊するために配備されてきました。

1980年から1999年の間に、多数の殺害、行方不明、拷問と拘留を伴って、1ダース以上の大虐殺が行われました。10万人以上の人々が、政府との解放戦争(1974-1997)のなかで死んでいきました。

およそ8万人の難民が隣国インドとの国境を越えましたが、彼らはそこで10年以上劣悪な状態に置かれ続け、インド政府は決して彼らを難民として認めようとはしなかったのです。

このような状況は、「平和の売買」と呼ばれている1997年に政府とジュマのゲリラとの間に結ばれた「和平協定」を経ても変わっていません。なぜなら、彼らはすでに入植者によって故国と村々を占拠されてしまっていて、そこに戻ることができないからです。

およそ9万3千のジュマの家族が国内の他の地域に移住させられ、未だに彼らのもともとの土地に帰ることが出来ません。

ジュマの歴史

私たちは、1880年までは、私たち自身の国を持っていました。

その年に私たちは、イギリス支配下となり、私たちの政治的な独立を失いましたが、イギリスは様々な局面で私たちの文化的独自性を尊重し、私たちの習慣や法律を保護しようとしました。しばらくの間、私たちのアイデンティティーを保護することに役立ったCHT マニュアルを、1900年に導入したのもイギリスでした。

けれどもそれらの平穏な日々は、パキスタンに私たちの土地を帰属させるという、1947年に下された根拠のない決定によって終ったのです。

私たちの真の苦しみはそれから始まりました。

パキスタン(1947-1971)の敵意に満ちた規則の下で、雇用やビジネスなどを含めて、私たちは生活のすべての場面で国家が後押しする過酷な差別的処遇を受けたのです。

例えば、 1993年にチャンドラゴナに 製紙所とレーヨン製粉所が建設された時にも、私たちの土地に建設され、私たちの土地から原料を産出しているにも関わらず、ジュマ民族がその工場で雇用されることは無かったのです。

1963年には、私たちの最も耕作に適した土地の40%を沈めてしまうカプタイ・ダムの建設が行われました。当初の約束とは異なり、土地を奪われた人々には何の補償も行われませんでした。このことは、イスラム教徒が多数を占める国のなかで、それとは非常に異なる人種、文化、宗教を持つ私たちの存在が、民族ごと破壊されようとしている事実を証明しています。

そのうちの70%をチャクマ族が占める10万人のジュマ民族は、先祖代々の土地を追われ、多くはインドの様々な地域へ強制的に追いやられました。およそチャクマ族の半分近い人々が、ダム建設の影響を受けました。

さらに、1964年から、ジュマ民族のアイデンティティーを保護してきた CHT マニュアルの法令は、その立法の主旨から大幅に外れはじめ、そのことによって土地に飢えた入植者の流入への道を開いたのです。

それで、素朴で平和を愛するジュマ民族は、彼ら自身を守ろうと考え、彼ら自身を組織しようと考えました。事態は進行し、1971年にはバングラデシュの解放戦争が始まったのです。

多くの ジュマ民族が、新しい国家のもとでは自らの権利が保障されるだろうという希望のもとに、この戦争に参加しました。しかし、多くの期待は裏切られました。この戦争では、ごく少数の人々がパキスタン側に合流しただけです。しかし、戦争が終った後、ジュマの人々はバングラデシュ解放戦線の兵士によって大虐殺されました。村々が焼き払われ、女性たちは強姦されたのです。

1972年、バングラデシュの独立後に作られた最初の憲法において、私たちが政府からの自治を求めて懸命にロビー活動やアピールをしたにも関わらず、私たちは独自の民族として存在することを否定され、独自の議会と共にCHT マニュアルも完全に廃止されてしまったのです。

そして、私たちは自らのアイデンティティーを失うという道を歩むか、さもなくば、入植者と軍隊による大規模な植民政策に直面することになったのです。武器を取って立ち上がること、私たちの民族は、その後の歴史のなかで、こうした道を選択してきました。

私たちの国では、圧倒的に力の差がある敵との血みどろの戦争を経験してきました。バングラデシュ政府は、世界がこの問題に対して関心を示さないなかで、アメリカやイギリス、あるいは中国などの大国の支援を受けながら、「国内のベトナム」問題を力づくで抑え込もうとしてきたのです。

20年以上続いた戦争のなかで、無数の人々が凍え、拷問にかけられ、投獄され、そして身体に障害を持つことになりました。住民の大半は、入植者に先祖の土地を奪われました。ほとんどが占拠されてしまい、私たちの住んでいたコミュニティのどれ一つとして、かってのまま残っているところはありません。

この地域における私たちの人口は、1947年には98%を占めていましたが、1995年にはたったの51%にまで低下しています。この傾向は、私たちの意に反してさらに急速に悪化しているのです。

和平協定の欺瞞

 最終的に、1997年に署名された、いわゆる「和平協定」は、ゲリラとの戦争を終わらせました。しかし、この問題の真の原因は決して解決されていませんし、私たちの権利が回復されてもいません。この「和平協定」を受け入れさせ、これに従わせるために、暴力が使われているのです。

「和平協定」に反対する多くの人々が、殺され、拷問にかけられています。しかし、形ばかりの「和平協定」が締結されたとしても、ジュマ民族の自治と公正を実現するための運動は、決して無くなることはありません。

内戦の間は、私たちの土地は世界のメディアから隔離され、訪問者が入ることも許されませんでした。それゆえ、ジュマ民族の苦境と生存そのものが脅かされている悲惨な状況は、世界の人々に届かなかったのです。

バングラデシュのメディアは、私たちをテロリストとしてしか報道しない、卑劣で先入観に満ちた報道をしています。軍によって、あるいは入植者によって行われた ジュマ民族に対してのどんな大虐殺の記事も、全国的なメディアで伝えられたことはありません。万一記事が載ったとしても、それは真実を歪め、巧妙に操作されて、私たちが悪いという形で報じられるのです。

そのため、世界の人々と同様、バングラデシュの人々は、決して何がそこで本当に起きたか知ることができなかったのです。

バングラデシュが、パキスタンから独立を勝ち取ったのと同様に、チッタゴン丘陵とそこに住むジュマ民族は、バングラデシュから独立するためのあらゆる権利を持っています。

もしパキスタンが、バングラデシュを統治した25年の間にバングラデシュ民族に対して行った差別と野蛮な行為によって糾弾されるなら、同じようにバングラデシュ自身が、 ジュマ民族の国を破壊するために組織的に行ってきた所業を、もっともっと糾弾されて然るべきではないでしょうか。

ジュマ民族に対してバングラデシュが行ってきた残虐な行為のレベルは、すでにパキスタンがベンガル人に対して犯した残虐な行為のレベルを上回っています。私たちは決して人間として扱われてきませんでした。バングラデシュは ジュマ民族の国を破壊するために、あらゆる汚い戦術を使っています。そこには、ここまで膠着したこの問題を解決しよという誠意がまったく存在していません。

政府が以前に約束したことを何一つ尊重しようとしない以上、国内におけるあらゆる努力によっては、この問題を解決することができないできました。ゆえに、この問題の解決のためには、国際的な努力が不可欠です。

ジュマ民族は、ナチスがユダヤ人に対して行ったように、隔離されたキャンプに住むことを強いられ、そして殺されてきました。私たちは、ボスニアあるいはコソボで行われたのと同様の、民族浄化を経験してきました。私たちの土地は、パレスチナやチベット、東チモールと同様に、国家が後押しする入植者たちによって奪われてきました。ただ、こうしたケースと異なることが一つ、それは私たちのケースは、世界に注視されることはなかったということです。

私たちの国は土地なしで存続することができないから、私たちは私たちの土地を返して欲しいのです。私たちの土地は、強制的にバングラデシュ国家に奪われたのです。

私たちは、世界の人々に訴えます。私たちを絶滅から救うために力を貸してください。どうか自治権を獲得するための私たちの運動を支援してください。

当面早急に必要なステップは 、ジュマ民族の自治地域を設立することです。これの実現のためには、国際世論の関与が絶対的に欠かせません。

ジュマ民族の心の痛みは余りにも根深く、それゆえに、バングラデシュ政府と協同して何かを実現することは、ほとんど不可能か、あるとしてもほんの僅かです。

日本に亡命してきて

日本に来る前の私は、他の様々な人々と共にジュマ問題に取り組む一活動家でした。

私は、数々の人権侵害についての情報を集め、それを国内、国外の信頼できるメディアに提供する活動などをしていました。

それ以前の私は、軍による逮捕や拷問、拘留の危険に常に直面している学生運動に関わっていました。

私は ランゴウドにおける 大虐殺に抗議して、1989年に仏教徒の僧侶が行ったデモンストレーションの首謀者だとして逮捕されました。

 私は非常に感じやすい年齢の時から、野蛮で、苦痛に満ちた差別を経験してきました。こうした蛮行の数々を目にしたことで、私はやむにやまれずに抵抗運動に参加したのです。

そうしたある日、 ジュマ民族への大虐殺の現場で、私が虐殺された死体を撮影した写真を持っているということが秘密警察に知られることとなったのです。私は考えられるすべての場所を捜索され、身を隠すしかなくなりました。

私はインドに逃亡し、そしてそこから1992年に日本に来たのです。

 日本に到着した時、私は初めての航海に出た時のように、すべてのことが私にとって新しく、そして未知なことに思われました。日本語と日本文化を学び、日本社会になじんで何人かの人々と出会うまでに2年の歳月を要しました。

最初の数年の間は、私はほとんど何も理解することができず、無力で安定した職業もななく、それゆえに、私はどのように難民申請をしたらいいのかさえ知らなかったのです。

現在も、私は時給1,000円以下のパートタイムの仕事をしながら、非常に惨めな生活を送っています。

 さらに、私は現在の仕事において、差別や嫌がらせ、精神的な苦痛を感受しなければなりません。私は、現在のような低い賃金、その上少ない労働時間で生き延びることはできません。

私は、1999年に申請した難民認定を未だ受け取ることができないがゆえに、良い仕事を見つけることができないのですが、未だに難民認定は受けられないでいます。

同時に私は日常的に逮捕の恐れのなかで生活しなければなりません。東京都内から外に出るには、許可をとらなければならないし、毎月入国管理局で許可のスタンプを受けなければならないのです。

さらに私は、週末や休日を使って、私の活動について報告するために色々な場所に行かなければなりません。

 こうした状況の下、私は生活の糧を得るための労働時間を確保することが困難です。もし私が休日には仕事を休みたいと要求すれば、私の就業時間はその分減らされるでしょう。もし私が私の境遇と活動に言及するなら、多くの職場では受け入れてもらえないでしょう。

しかしながら、もし私がジュマ民族のことを多くの人々に訴えるために、多くの場所へ足を運ばなければ、ジュマの問題を誰も知ることはなく、誰も私たちに手を貸そうとは思わないでしょう。

ジュマ民族を、そして私を助けてください!

私の国では、多くの人々が自治を求めて殺され、あるいは誘拐されたり、拘留されたりしてきました。

私は日本で、ジュマ民族の自治を獲得するために運動してきました。

  もし私が私の国に返されたら、私の生命は確実に脅かされるでしょう。なぜなら私は私の民族の自治のためのキャンペーンを国際的に担ってきたからです。

  だからこそ、私は日本で難民認定を求めているのです。

どうか私を助けてください。

私は、日本で完全に保護された地位を確保できない限り、私の国へ帰ることはできません。

私は年々歳をとっていきます。もし難民認定を受けられなければ、私はこれ以上生きていくことはできません。

自由を愛するがゆえに反体制運動をしているジュマ民族の一人である私は、今追放の危機にあります。

私は、自分のこうした感情を、今まで表現したことはありませんでした。しかしこれは日本に亡命してきた一人のジュマ人の偽らざる気持ちなのです。

2002年12月15日

◆ シシコ・チャクマさんは、多くの方々のご支援・ご協力によって2003年3月に「在留特別許可」を得ることができました。                               

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