Essay
デューイの掲げたプラグマティズとそれに基づく教育論。
それはアメリカで広く普及したが、しかしベトナム戦争などを経てアメリカ社会は大きな病理に陥る。
教育によって社会は変わり得るとのデューイの理想は限界に突き当たったのか?
この問題について『学校と社会』解説では以下のように記している。
「学校教育の力の限界。学校は、社会にすでに存在している欲求や目的に奉仕する技術的手段を青少年にあたえているのであって、社会的活動がそれによって選択され決定されるところの根源である欲求自体、目的自体を形成することには、成功していない」
「よりよい教育が、教育機関によってではなく、社会そのものによっておこなわれている。だから社会そのものが教育的にならないかぎり、学校がいかに教育的活動につとめようともだめである」
では教育的な社会とはどんな社会なのか?
「公共的な目的のためにプラニングと実験が不断におこなわれるような社会、不断に計画されてゆく社会、社会それ自体がひとつの教育機関となる、金銭的な利得のための競争的な努力の場であることをやめて、協同的に、したがって教育的になりうるような社会」
ではこのような社会を創造するために、教育は何をすべきか?
「教育は、社会の変化を生みだすことにおいて、一つの役割を、重要な一つの役割をもつものとして再調整されなければならない」
本書はJ.S.ミルが1867年セント・アンドルーズ大学に名誉学長として就任した際の講演をまとめたものである。
就任演説では冒頭で次のように教育について語る。
「教育は色々な人々によって種々様々な観点から是非とも考察されなければならない」
「多面的な問題の中でも、その最たるものが教育の問題である」
「人格の完成というその直接的な目的以外に、例えば、法律、統治形態、工業技術、社会的な生活様式等が、更に人間の意志に左右されない物理的現象、例えば、気候、風土、地理的位置等の、人間の性格と能力とに及ぼす影響などまでも含まれる」
「人間形成に影響を与えるものはすべて、つまり、現在の自己たらしめ、現在の自己からかけ離れないようにさせているものすべて」
まさに教育とは社会全般にかかわっており、人間に影響を与えるもの全てが教育に含まれるとの彼の教育観が示されている。
であるがゆえにまた、こんなことも述べている。
「教育とて、悪い教育も往々にしてあり、その結果、その悪影響を防止するために知性と意志との教化によってなしうることすべてをしなければならないこともある」
本書は、大学教育に限定してミルが語った講演を集めたものだが、そもそも彼は大学教育をどのように位置づけていたのか?
「即ち、既に到達した進歩の段階を少なくとも維持しうる、また、できることならば、それを引き上げることができるような能力を育成するために、各世代がその後継者になりうる人々に授ける教養」
「大学は職業教育の場ではない。大学は、生計をうるためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要となる知識を教えることを目的としてはいないのである。大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにある」
「専門技術をもとうとする人々がその技術を知識の一部分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術に吹き込むかによって、つまり、教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植え付けたかによって決定される。人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのである」
「大学で学ぶべきことは知識の体系化についてである。つまり、個々に独立してる部分的な知識間の関係と、それらと全体との関係とを考察し、それまで色々なところで得た、知識の領域に属する部分的な見解をつなぎ合せ、いわば知識の全領域の地図を作り上げることである。現に実在しているものすべてが種々様々な特性からいかに構成されているかを考察することである」
「というのも、全体が考慮に入れられなければ、われわれはそれらを単なる抽象として知るだけであって、『自然』の一事実として真に知ることはありえないからである」
「各部門が、われわれ人間が共有する性質を強化、高揚、純化、洗練するという人類共通の目的に到達するためには、そして、また、人間が一生を通じてなすべき仕事に必要な精神的道具を供給するためには、いかに協調し合うべきであるのか」
「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させること」
「人間精神が扱うことのできる主題のなかで最も複雑なものは政治と市民社会である。それ故、一政党に盲目的に追従する人としてではなく、思慮ある人としてその双方に適切に対処しうる人になるためには、精神的、物質的生活両面の重要な事柄についての一般的な知識が要求されるだけでなく、正しい思考原理と法則によって、単なる生活体験、一科学または知識の一分野では提供しえない段階まで、訓練され、鍛え上げられた理解力が必要となる」
「われわれの学問の目的は、単に将来自らの仕事に役立つような知識を少しでも多く身につけるということにあるのではないということ、むしろ、人間の利害に深く関わるありとあらゆる問題について、何らかの知識を、しかも正確に把握するよう気を配り、われわれが確実に知っていることとそうでないことの境界線を明らかにするということにこそある」
ミルは政治や社会と総合的に向き合う実践的な判断力、思考力の育成を極めて重視していたことが分かる。
それは結局、人間がより幸福に暮らすことができるより良い社会を創造することこそ、教育の究極の目的だと考えていたからだろう。
日米地位協定では、アメリカ軍が使用する施設および区域、路線権などは日本が提供するが、維持経費はアメリカが負担すると規定されている。
しかしこれをなし崩し的に反故にし、法的根拠のない「思いやり予算」が日本政府によって大盤振る舞いされてきたことは周知の通りだ。
「思いやり予算」は1978年度から開始され、米軍基地内の日本人労働者の労務費、米軍の隊舎や家族住宅などの施設整備費、光熱水費、訓練移転費なども負担している。
その額は最大で在日米軍駐留経費の80%近くに及ぶ。
しかも、米軍基地や演習場などでは、実弾射撃訓練による山林の火災、赤土流出による河川・海域の汚染、毒ガスや廃油など有害物質の放置がまかり通っている。
地位協定では、こうした基地内の環境汚染などについて米軍はすべて免責されているのだから驚きだ。
地位協定第四条「施設・区域の返還に際しての原状回復、補償問題」では以下のように記されている。
「合衆国は、この協定の終了の際又はその前に日本国に施設及び区域を返還するに当たって、当該施設及び区域をそれらが合衆国軍隊に提供された時の状態に回復し、又はその回復の代りに日本国に補償する義務を負わない」
米軍は日本国土をどれほど破壊しようが、汚染しようがやりたい放題というわけだ。
自由主義哲学の草分けである『自由論』を著したJ.S.ミルは、1806年ロンドンに生まれた。
父親は『英領インド史』の著書ジェイムズ・ミル。
『ミル自伝』(岩波文庫)ではその父についてこう述べている。
「父は、アンガス州ノースウォーター・ブリッジに住む小商人で同時にささやかな農業を営んでいた(と思うのだが)ものの子に生まれ、少年のころに、その才能のゆえに、スコットランド財務裁判所判事の一人でファタケアンに住んだサー・ジョン・スチュアートの認める所となり、その結果、ジェイン・ステュアート夫人その他の貴婦人たちがスコットランド教会で働く青年を養成するために創設したある基金で、エディンバラの大学に入学することになった。
父はその大学で、おきまりの学科課程をおさめ、伝道師の資格を得たが、ついにその職には就かなかった。スコットランド教会にせよその他の教会にせよ、その教義を信ずることはできないという結論に達したからである」
ミルはこの父から、わずか3歳にして「天才教育」を受けることとなる。
自伝冒頭には、次のように記されている。
「このごろは、教育とか教育の改革とかが、英国の歴史上かつてなかったほどに、深くとはいえないまでも、さかんに研究されている。して見れば、私の受けた、なみはずれた異色のある一つの教育の、多少の記録を残すことは何かの役に立つかもしれない。
しかもその私の受けた教育は、他の点の結果は論外としても、世間でいう教育の普通のやり方ではまったくむだに使われているといってもよい幼少の時代に、世間一般に考えられている程度よりもはるかに多くのことを、しかも見事に、教え得るのだということを証明しているのである」
この「異色」の教育とはいかなるものだったのか?
米海軍第七艦隊が司令部を置く横須賀。
昨年初めて原子力空母ジョージ・ワシントンが配備された。
ジョージ・ワシントンが搭載する原子炉は120万キロワット。
横須賀に大型の原子炉が出現したのと同じ意味をもつ。
横須賀から100キロ圏内の首都圏には、3000万人が住んでおり、万一原子炉で重大事故が起きれば取り返しのつかない被害が生まれる。
その際、米軍はどのような責任を取るのか?
外務省機密文書『日米地位協定の考え方・増補版』を読めば、外務省はひそかに米軍が引き起こす原子力事故について想定し、日本の原子力損害賠償法を適用して処理すると決めていたことが分かる。
その法的根拠は、日米地位協定の中に強引に読み込もうとしているのだ。
地位協定第一八条「請求権・民事裁判権」ではこう記している。
「公務執行中の合衆国軍隊の構成員若しくは被用者の作為若しくは不作為又は合衆国軍隊が法律上責任を有するその他の作為、不作為若しくは事故で、日本国において日本国政府以外の第三者に損害を与えたものから生ずる請求権は、日本国が次の規定に従って処理する」
「請求は、日本国の自衛隊の行動から生ずる請求権に関する日本国の法令に従って、提起し、審査し、かつ、解決し、又は裁判する」
つまり日本国内で米軍が引き起こす事故などに関しては、自衛隊が事故を起こした際に適用される法律に基づいて損害請求が行われることになる。
しかし自衛隊は原子力艦船を保有していないから、原子力事故に関する規定は存在しない。
そこで外務省が考えたウルトラCが「増補版」には記されている。
なんと一般の原発事故の際に適用される原子力損害賠償法を米軍にも適用するのだ。
「原子力損害の賠償に関する法律もここでいう『日本国の法令』に該当する」
実は既に1964年米原潜の寄港に際し、米側とは万一の事故の際に原賠法を適用する旨を確認していた。
「日本国の船舶に適用される限度において、通常の原子力潜水艦に係る原子力事故で、放射能汚染による疾病を含め負傷又は死亡をもたらしたものについての請求の処理」
原賠法では、原子力事故の被害者に600億円を限度として損害賠償し、これを超える損害が発生したときは、必要に応じ国会の議決に基づき政府の権限の範囲内で援助を行うとされている。
法律制定に当たって政府が秘密裏に行った原発事故の被害想定が余りにも巨大で、これを一企業が引き受けることにしては原子力産業が育成できないと判断し、賠償限度額をわずか600億円に設定した悪法だ。
それでも日本国内の原子力事業者は、原賠法の適用を受けるためには発電所ごとに保険業者と「原子力損害賠償責任保険契約」を締結している。
またこの保険ではカバーできない種類の原子力損害を賠償するため、国と発電所ごとに「原子力損害賠償補償契約」を締結しなければならない。
米軍がこのような契約を結んでいないことは明らかだろう。
にも関わらず原賠法は米軍の原子力事故にも適用されるとしたら、最初から米軍を免責しているようなものだ。
さらに地位協定には以下のように銘記されている。
「合衆国のみが責任を有する場合には、裁定され、合意され、又は裁判により決定された額は、その二十五パーセントを日本国が、その七十五パーセントを合衆国が分担する」
100%米軍の過失により引き起こされた原子力事故であっても、その被害額のうちの四分の一は日本国民の税金で補償される。
横須賀で原子力空母が放射能事故を起こしても、政府や外務省にとって何よりも大切なのは米軍の便益なのだろうか?
首都近郊に存在する米軍横田基地は、東京西部から新潟県、八ヶ岳付近、伊豆半島に及ぶ1都8県に広がる横田空域を独占的に管制してきた。
1992年に一部が返還され、さらに2008年9月には羽田空港の西側にあたる南半分のうちの約40%(横田空域全体の約20%)が日本側に返還された。
また北半分についても高度規制が引き下げられた。
それでも基本的には今なお、日本の首都圏の空はアメリカ軍によって制空されている。
このことは、年々増加する航空需要のなかで、空の過密状態を引き起こしている。
2001年1月31日、静岡県焼津市上空で、あわや大惨事となりかねない日本航空機同士のニアミス事故が発生した。
こうした事故の背景には、民間航空機を閉め出している横田空域の存在がある。
この米軍による独占的な航空管制は、日米地位協定のなかで明文化されているわけではない。
第六条「航空・通信体系の協調」では次のように記されているだけだ。
「すべての非軍用及び軍用の航空交通管理及び通信の体系は、緊密に協調して発達を図るものとし、かつ、集団安全保障の利益を達成するため必要な程度に整合するものとする」
つまり米軍は何の法的な根拠もなく、首都圏や沖縄での航空管制を牛耳っているわけだ。
ゆえに外務省機密文書『日米地位協定の考え方・増補版』の中で、外務省自ら次のように吐露している。
「管制業務を米軍に行わせている我が国内法上の根拠が問題となるが、この点は(略)合同委員会の合意のみしかなく、航空法上積極的な根拠規定はない」
ところが我が外務省は、「だから1日でも早く日本側に管制権を戻すべきだと」と考えるのではなく、こんな風に考えている。
「米側が必要な限り我が国民間機にサーヴィスを提供している空域であって、我が方にとって特に支障となるものではない」
自国の首都上空の管制権を米軍に委譲し、自国民間機は米軍からサーヴィスをしてもらっているから何の問題もないとの発想は、外務省が米軍の下請け化していることを示している。
神奈川県の米軍横田基地には「在日米軍司令部」と「第5空軍司令部」が存在する。
基地では昼夜を問わず米軍機が発着し、周辺住民に深刻な騒音被害をもたらしてきた。
ベトナム戦争中には、低空で飛行する米軍機による衝撃波のため、風呂場のガラス窓が割れて浴室に落下し、入浴中の住民が大ケガを負うという事故も起きている。
基地被害に苦しむ周辺住民が、国に対して夜9時から朝7時の飛行差し止めと損害賠償を請求する訴訟を行い、1993年に以下の判決が最高裁で確定した。
「米空軍『横田基地』の軍用機の飛行騒音は、周辺住民の生活を違法に侵害している。国は原告に損害賠償を支払え」
しかし飛行差し止めについてはこう述べるに留まった。
「飛行騒音を発生させているのは米軍であり、横田基地の施設管理権のない日本政府は騒音の発生を防止する立場にない」
そこで米政府を被告として新しい訴訟が開始されたが、最高裁は却下。
「米軍機の飛行は、アメリカ合衆国政府の主権的行為であり、民事訴訟上、日本の裁判権は及ばない」
つまり在日米軍のもたらす被害について、基地周辺住民は、日本政府にも米国政府にも、被害の除去を法的に訴える権利を持ち得ないということなのだ。
その根拠とされているのが日米地位協定である。
第3条「施設・区域に関する合衆国の権利」にはこう記されている。
「合衆国は、施設及び区域内において、それらの設定、運営、警護及び管理のため必要なすべての措置を執ることができる」
米軍が必要だと判断すれば、24時間演習を行おうが、周辺住民にいくら迷惑がかかろうがお構いなしだ。
これについて外務省は機密文書『日米地位協定の考え方・増補版』でこう合理化する。
「法令の執行のために施設・区域内において米軍の活動が結果的に諸種の規制を受けることとなったのでは、軍隊としての機能を維持できず、任務を有効に遂行しえないこととなる」
「したがって(略)米軍に対しては、施設・区域の管理権を認め、法令の現実の執行は、かかる米軍の管理権を侵害しないかたちで行う」
外務省は、自国民の権利よりも、米軍が「軍隊として機能」することを優先すると公然と語っている。
市街地の真中にある沖縄国際大学構内に米軍ヘリが墜落した事故。
まかり間違えば多くの人命が犠牲となったかもしれない。
しかし現行の日米地位協定では、たとえ米軍機墜落事故で多数の日本人犠牲者が出たとしても、米軍が日本の警察権や司法権の下で捜査されたり裁かれたりすることはない。
事故原因が整備不良や操縦ミスであったとしても、事故は「公務中の犯罪」にしかならず、第一次裁判権は米軍側に存在するのである。
日本国内で米軍が治外法権を持っているかのように振舞うことができる日米地位協定とは一体いかなるものなのか?
日米地位協定の正式名称は、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」である。
その名が示すように、日米安保条約を補完するものとして安保条約締結と同時に1960年1月19日に締結された。
外務省機密文書『日米地位協定の考え方・増補版』では、冒頭に「地位協定が第二次大戦後の一般的現象となった理由」として次のように述べている。
「第二次大戦以前には、特定の例外的場合を除き、平時において一国の軍隊が他国に長期間駐留するということが一般的にはなかった」
しかし第二次大戦後の東西冷戦下、NATOをはじめとしてアメリカ軍が同盟国に長期かつ大規模に駐留するような時代状況となり、地位協定が必要となったわけだ。
逆に言えば、冷戦終結後日米安保の在り方そのものを見直すべき時代になりながら、未だに安保体制の護持のために米軍の都合に合わせて次々と地位協定を恣意的に解釈・運営していることに問題の本質がある。
沖縄・普天間基地の移設を巡って鳩山政権とアメリカ側との攻防が始まっている。
市街地の真ん中に基地が存在し、日常的な危険にされされている沖縄の人々。
それを象徴する衝撃的な事故が2004年8月13日に起きた。
沖縄国際大学構内に米軍海兵隊ヘリが墜落したのだ。
事故直後、米兵約50人が沖縄国際大学構内に入り、一方的に事故現場を封鎖した。
米軍によって本館から大学職員は退去させられ、沖縄国際大学の学長すら構内に入れなかった。
米軍は日本側に何の説明もすることなく一方的に事故機を回収すると共に、現場の土を大量に持ち去っている。
恐らく機体部品に使用されていた放射性物質の汚染を隠蔽するためだろうと言われている。
沖縄県警が合同で現場検証を申し入れても米軍側は「日米地位協定」を盾にこれを拒否した。
現場検証を拒否された沖縄県警幹部は、「こんなばかなことは直さないといけない。操縦士の名前すら教えてもらえていない」と憤慨したほどの屈辱的事態だった。
ジョン・デューイは1859年、アメリカ・ヴァーモント州で、イギリスから移住してきた開拓者の4代目の家庭に生まれた。
この年、後に彼が多々大な影響をうけたダーウィンの『種の起原』が刊行された。
宗教的な因習にとらわれず、実証的で科学的な学問が大きく花咲いていく時代にデューイは育ったのだ。
大学卒業後、1年ほどハイスクールの教師となり、その後、哲学の研究を志して、ジョンズ・ホプキンス大学の大学院に入学。
学位論文「カントの心理学」を記して助教授となるが、この当時は、ヘーゲル主義者としてドイツ観念論に傾倒したという。
しかし1890年代に入り、彼の問題意識は急速にヘーゲルから離れ始める。
そしてジョージ・ハーバート・ミード (George Herbert Mead)に強く影響され、観念の実地への適用という実証主義的・技術的な見地から、精神と行動の関係を考察するようになる。
また、個人と社会の関係を、個体と環境の相互作用という生物学的見地から考えるようになる。
こうして自ら名付けた道具主義、或いは実験主義が形成されはじめたのだ。
「知能がもつ特殊に社会的な表現、すなわちいわゆる『社会的知能』という働きには、所与の個人が、自分といっしょに所与の社会環境のなかにふくまれている他の個人たちの役割を採用する─他人たちの位置に自分自身を置く─能力をどうもっているかによって左右される」
34歳となった1894年、シカゴ大学に哲学・心理学・教育学を合わせた学部の部長として招かれる。
「観念は実際の状況のなかで使用してみなければ、その正しさを試査することもできないし、その誤りを訂正することもできないという立場から、とくに教育のことが関心をひく。つまり、教育といく過程を操作すれば人間の認識の発達や性格の発達についての実験を行うことができる」
こうした考え方のもとデューイは、生きた人間の社会生活を実験材料とする、実験室学校(Laboratory School)、シカゴ大学付属小学校を開設する。
当初、この学校は生徒16人、教師は2人のみ。
しかし、周囲の無理解や財政難とたたかいながら1898年には生徒81人にまで拡大。
この3年間の実験の報告をまとめたのが、『学校と教育』である。
この実験室学校は1903年まで続いた。
こうした彼の活動は、アメリカ資本主義の発展形態にふさわしい哲学=プラグマティズムを確立した。
それはアメリカ哲学の主流として不動の位置を占めるようになる。
教育過程を実社会の活動と密接に結び付けることで、教育を通じて社会性や公共性を培うことを目指したデューイ。
そのデューイは教育の対象である子どもをどのように捉えていたのか?
「子どもはすでにはげしく活動的」
「或る潜んでいる活動の萌芽をおとなが漸次に抽きだすために多大の注意と熟練をもって接近しなければならぬというような純粋に潜勢的な存在ではない」
子どもは大人が関わらなければ自分から何もやらない、精神的にひ弱な存在ではない。
むしろ、活動的な子どもをいかに指導していくかが教育に問われる。
「子どもが種種の事実、材料、およびそれらのものにふくまれる諸条件を認識することによって自分の衝動を実現し、そしてその認識をつうじて自分の衝動を規制するようになることは、教育的である。
これが興味をたんに刺激する、或いはほしいままにさせることと、興味を指導することによってそれを実現させるこことのあいだに存する差異であって、この差異を私は強調したいのである」
子どもの興味をどう意識的に実現させ、自分の行動を振り返らせ、より高い考察を持続させるのか。
他者との関係の中で社会的、主体的存在としてどう高めていくのか。
そのためのに彼は、教育者が関わるべき子どもの衝動(興味)を4つに分類する。
ジョン・デューイは20世紀前半、アメリカの公立学校を中心とした初等中学校教育の形成に重要な役割を果たした。
ここで紹介する『学校と社会』は、1899年、彼自らが創設したシカゴ大学付属小学校で生徒の親と学校の後援者を前に行われた講演をまとめたものだ。
「いつでもわれわれが教育上の新運動についての論議のことを考えるばあいには、これまでよりもひろい、いいかえれば社会的見地をとることが、とりわけ必要である」
「おおざっぱに『新教育』とよばれるものを、ここでひとつ、社会のより大きな変革に照らして考えてみていただきたい」
「われわれはこの『新教育』を社会の諸事象の一般的進行とむすびつけうるであろうか。もしむすびつけうるとすれば、『新教育』は、その孤立的性格をうしない、...全社会進化の重要な一部分として、不可避的なものとして、あらわれるだろう」
こうした発言にも示されるように、デューイは学校の改革は社会的変化の中で考えられねばならないと訴えた。
彼によれば、家内制手工業の時代には、家庭の各員が仕事の作業を分担しており、教育は生活の中そのものに存在した。
「秩序や勤勉の習慣、責任の観念、およそ社会においてなにごとかを為し、それが為されることを実際に必要とする或ることがらがつねに存在し、物の役に立つように行動する人間が、行動そのものをとおして育成され、試練された」
しかし19世紀後半、産業革命を経た欧米では産業形態が大きく変化した。
家内制手工業は巨大な工場にとって代わられ、産業の集中と労働の分業が飛躍的に進んだ。
「家庭と近隣から有用な仕事がなくなってしまった」のである。
人間の知とは何か、それがいかなるしくみやはたらきを持つのか?
この問いへの回答を学際的に探究しようとする科学は、ヨーロッパ哲学の流れとは相対的に別個に、アングロ・サクソン系の経験科学を出発点として発展してきた。
これが今日、認知科学と呼ばれているものである。
もとより認知科学というカテゴリーは1970年以降に登場したものであり、その内容的規定をめぐっては様々な立場が存在している。
ここではまず、認知心理学者の一人ハワード・ガードナーの認知科学に関する定義を踏まえたい。
ガードナーは認知科学により、西欧哲学の系譜にある認識論上の哲学的諸命題と対質しようとしている。
「私は認知科学を次のように定義する。すなわち、認知科学とは、永い年月を経て問われてきた認識論上の問題に答えようとする、経験に基礎をおいた現代的な試みであり、特に、知識の性質、その構成要素、その源泉、その発展と利用にかかわるものである」
先日テレビ東京の番組で、人工知能について特集を組んでいた。
しかしそこで取り上げられている人工知能は、パソコンに毛の生えた程度のものでしかなく、とても知能と呼ぶには程遠いものでしかなかった。
例えば、コンビニの空調や照明の調整を、時間帯や気温、日光の照射などの情報をもとにして自動的に調整する機能。
果たしてこれを司るのが「人工知能」と言えるだろうか?
私から言わせれば、センサーの数や種類を増やし、プログラムを少し複雑にしただけの話で、知能と呼ぶには程遠い代物でしかない。
では一体、知能とは何なのか?
膨大な情報を物凄いスピードで処理しているコンピュータは、あたかもそれらの情報をもとに推論や帰納を行っているかのように見える。
しかし、実はそこでの情報処理はあらかじめプログラムされた定理と条件を使って演繹的推論を利用しているに過ぎない。
ゆえにどれほど高度なスーパーコンピュータでも、プログラムがカバーできる範囲での、つまり定理が正しいという前提においてしか情報に対応できない。
本来の人工知能とは、こうした既存のコンピュータの限界を突破するものでなけば意味はない。
これこそAI(Artificia Intelligenc)開発の目標のはずだ。
『知のエンジニアリング―複雑性の地平』の著者橋田浩一は、本来のAIで問題にされていることを次のように語る。
「特定の用途や文脈に限定されないシステムに関する工学または科学」
分かり易く言えば、映画『2001年宇宙の旅』に登場するスーパーコンピュータHAL9000を本当に開発できるのかを問題にしているわけだ。
HAL9000は自意識を持ち、人間に反乱を試みる。
まさに人間と同じ知能を持つ存在として描かれていた。
ハイエクは『問題の性質とその歴史』において、社会主義で問題となるであろう次のような点も指摘した。
「たとえ、生産資源の共有が、個々の資源単位が使用されるべき目的とその使用の方法とを競争的に決定することと、両立しうるとしても、われわれはなお、資源の一定量を社会のために処分する機能をもつのは誰であるかの問題、あるいはどれだけの資源が種々なる『企業家』に任されるべきかの問題は、一個の中央当局によって決定されるべきであろうと仮定しなければならない。これは共有の観念と両立しうる最低の仮定であり、共同体をして生産の物的手段から生まれる所得に対する支配権をなお留保せしめうるための最小限度の中央指導であるように思われる」
つまりどれだけ分権化され、機能的に組織されようと、そしてまた市場や貨幣経済を導入しようとも、社会主義である以上は必ず経営上の権力や権限が行政的に決定される余地が残るというわけだ。
だとすればその場合、経済的な合理性を追求するインセンティブが充分に形成されうるのか? これがハイエクの突き出した問題である。
経済計算を巡る議論に対して、従来の多くの左翼は、往々にして議論のレベルをすり変えようとしてきた。
いわく「ブルジョア的な私的所有制度に呪縛されているから、計画的な生産や消費が不可能だと考えるのであって、社会的な富がすべての労働者のものであり、分配が公正に行なわれるならば、必ず目的意識的な経済運営は可能なのだ」と。
こうした議論に対するミーゼスの批判は示唆に富んでいる。
「カール・マルクスおよびその正統的支持者たちのそれを含むすべての社会主義体制は、社会主義社会においては、特殊と一般との利害の衝突が全く起こり得ないという仮定から出発している」
「彼らは社会主義共同体国家を『無上命令』(終局的道徳律としての良心の命令―訳注)の基礎の上にのみ、構成し得ると信じている。彼らがこのような仕方に如何に気軽に進む習性を持っているかは、カウツキーが次のように述べる時、最もよく示されている。『社会主義が社会的必然だとすれば、社会主義と人間性質とがもし衝突したとした場合に、自己を調節しなければならないものは、社会主義ではなくて、人間性質であろう』。これは愚かな空想主義以外の何ものでもない」
カウツキーだけでなく、当時の社会主義者のほとんどが、こうした極端な設計主義的志向を持っていたことは想像に難くない。
しかし資本主義を道徳的、倫理的に批判するだけでは、合理的な経済運営を実現することはできない。
続きを読む: 社会主義経済計算論争(3)ポランニーの機能的社会主義
1917年にボルシェビキ政権がロシアに誕生し、歴史上初めて「社会主義」を掲げた国家が成立した。
産声をあげたばかりのロシア社会主義を押しつぶそうと躍起となったヨーロッパ各国は、革命圧殺を目的に内戦に干渉し、おびただしい赤軍兵士の血が流され、戦時経済によってロシアは疲弊していった。
こうした厳しい状況のなかで戦時経済体制を続けたロシアは、1919年にブレスト講和を締結し、以降レーニン指導下で新経済政策(NEP)を採用する。
リアリストだったレーニンは、市場経済を再導入して労農同盟を維持する必要を感じていたのだ。
しかし、政治的感覚においては優れていたレーニンも、理論的にはあくまでも社会主義計画経済に固執した。
一方ロシアの経済学者ボリス・ブルツクスは、1920年8月ペトログラードで開催された学者の集会で、社会主義下では合理的な経済計算は不可能だとする演説を行ない、22年には雑誌『エコノミスト』で発表した。
残念ながら間もなくこの雑誌はボルシェビキ政権に弾圧され廃刊に追い込まれ、ブルツクス自身もレーニンの指示によって国外追放されてしまう。
歴史上初の社会主義国家だったソ連邦は、成立からわずか70年余で崩壊した。
ソ連邦の崩壊は、明らかにその下で生活していた人々が、社会主義体制に希望も喜びも見出すことができず、三行半を突きつけたことによって起きた。
それから既に20年近く経過した今日もなお、「社会主義」を政治的信条として掲げている人々がいる。
しかし社会主義を巡る問題は、経済的なリアリティを抜きにして語ることはできない。単なる信仰告白では済まされないのである。
その意味で、ロシア革命直後からヨーロッパの経済学者、社会主義者のなかで行なわれた「社会主義経済計算論争」は、今日的にも非常に示唆に富む視点を突き出している。
この論争に関し、日本の左翼はほとんど関心を示してこなかった。それはまさに、日本における左翼運動の大きな限界だったと言えよう。
『原典 社会主義経済計算論争』(ロゴス社刊)を参考に検証してみたい。
続きを読む: 社会主義経済計算論争(1)計画経済を批判したミーゼス
戸坂と対照的なのは、梯明秀の西田評価だ。
梯は、1937年『学生評論』に、その名もズバリ「西田哲学を讃ふ」と題した評論を掲載。マルクスの『経済学・哲学草稿』を西田に紹介したのも自分であると主張していた。
梯は当時の左翼の哲学について次のように批判していた。
「甚だ多くの唯物論者が行為的自己の哲学的自覚を怠って、ただ知的自己の立場から物を言ってゐる」
そして「対象の認識といふことは、実在の影像でなくして生命の表現でなければならない。ここに知識の客観性があるのである」との西田の主張を評価し、これを「媒介的、批判的に摂取する」ことによって「唯物論者が知ると言ふとき、それは実践的に認識することであり、身をもつて分析すること」ができる哲学体系を創造しなければならないと主張したのだ。
「ミイラとりがミイラになった」三木とは違い、最後までマルクス主義者としての実践的立場を貫いた戸坂潤は、西田哲学を当時の世界的な思想状況のなかでは評価しつつも、マルクス主義哲学の立場から徹底的に批判した。
1933年に『唯物論研究』で発表した「『無の論理』は論理であるか?」では、次のように西田哲学批判を展開している。
戸坂はまず、西田が『善の研究』における「純粋経験」を発展させた「場所の論理」「無の論理」を整理する。
「観念論的弁証法でも唯物弁証法でも、何かノエマ的に観念とか物質とかいふ有(存在)を置いて、そこで弁証法が成り立つたと見てゐるのであるが、さういふ有の論理では弁証法的矛盾は考えられない。本当の弁証法は、有が直ちに無に裏づけられてゐる、生即死、死即生といふ点にしか考へられないのだ、無の論理によつてしか考へられない、弁証法は自覚に依つてしか考へられない」
大東亜戦争を肯定した西田の政治的立場もあり、戦前多くの左翼思想家たちは西田哲学への批判を試みた。
しかし三木清などに見られるように「ミイラ取りがミイラになる」、つまり西田哲学のプロブレマティークに包摂され「転向」していく思想家達が数多く生み出された。
そこには、当時の左翼思想が総体として抱えていた本質的問題が横たわっていた。
これについて久野収は、『批評空間』第Ⅱ期第4号での柄谷行人、浅田彰との対談のなかで端的に述べている。
「当時の哲学科左派の唯物論だと、根源的な矛盾を含んでいるわけです。認識論のほうから言えば、はなはだ受動的で、人間の意識が鏡になって物の実相を映すという模写論だけれども、実践論のほうから言えば、環境や人間を操作し、干渉して真理を暴き出し、さらには外界と内界を積極的に変革する方法になるでしょう。
マルクスにもエンゲルスにも両方の要素があって、本当の統一は、各人にまかされているのではないか。それで、認識論中心派の、認識を実践に機械的に適用して成功させる、認識論としての弁証法とか、哲学のレーニン的段階とか言って、ソ連型マルクス主義を金科玉条として仰ぐ人たちに対して、京都の哲学者もマルクス主義者も、その問題でたいへん苦労をさせられていた。
それで、主体と客体との関係とか、主体と主体との間柄的、場所的関係とか、認識論としての模写説と実践論としての変革説とが一見矛盾するように見える関係をなんとかつなぎ合わそうとして、三木清、戸坂潤、船山信一、梯明秀にしても、みんな苦し紛れの綜合主義、統一主義の方向を打ち出す」
まさに、その苦し紛れの綜合主義、統一主義がいかなるものであったのか、そして西田哲学はかれらのその思想的営為にいかなる影響を与えたのか、以下概観してみよう。
「純粋経験」を基本的概念としながら、西田は第二編では「実在」、第三編で「善」について、そして第四編では「宗教」について論を進めていく。
第二編ではまず、「実在」についてこう語る。
「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」
「普通には主観客観を別々に独立しうる実在であるかのように思い、この二者の作用に由りて意識現象を生ずるように考えている。従って、精神と物体との両実在があると考えているが、これは凡て誤である。主観客観とは一の事実を考察する見方の相違である、精神物体の区別もこの見方より生ずるのであって、事実其者の区別でない」
西田は明確に主客の二元的対立図式を批判する。
それでは、この二項対立をいかに止揚するのか。
『善の研究』の第一編で西田が展開する「純粋経験」こそ、近代主客図式を克服せんとする西田哲学の最重要の基礎概念だ。
西田は、西洋的な「有の哲学」に「無の哲学」を対置しようとした。
その背景について下村寅太郎は次のようの述べている。
「『善の研究』の、やがてまた西田哲学一般の基礎には禅的体験がそれの重要な思想動機の一つとして存するように思われる」
実際、西田は金沢時代の十年間、休暇となれば常に禅堂において打坐し、「打坐越年」が当たり前だった。
家庭で正月を迎えたことなど殆どなかったと言われている。
明治から昭和にかけて、日本思想界に最も大きな影響を与えた思想の一つは西田哲学であろう。
戦前マルクス主義者だった戸坂潤は、1933年に執筆した『現代のための哲学』において次のように紹介している。
「この哲学(故左右田博士は之を西田哲学と名づけた)は、単に我が国だけに於ける代表的な哲学であるばかりではなく、公平に云って、世界的水準から云っても、指導的な位置を占めると云って好いだろう」
「欧州の、又は主に独乙の、所謂哲学と名の付く哲学が、或る根本的な理由から、全く行きづまって了っている今日では、そして『ハイデッカー』や『ヘーゲル復興』の名を聞いて、溺れる者が藁を掴むように、之にしがみつこうとしている今日の国際的哲学界に於ては、西田哲学の展開と前進とはいよいよこの哲学の優越性を高めねばならないわけである」
これだけの影響力を有した西田哲学だが、戦争中天皇を頂点とする国体と大東亜戦争を肯定する体制翼賛イデオロギーとなったことで、戦後の日本思想界においてはほとんど内容的な再検討を経ないまま放置された。
航空の世界では「クルー・コンセプト」の概念が極めて重視される。
「個々のパフォーマンスではなく、コックピット内のマシンとクルーすべての組み合わせから生まれるパフォーマンス(トータル・パフォーマンス)を中心にして考える」
「機長がいかに優れた技量の持ち主であったとしても、他のクルーの技量をうまく発揮させることができなかったり、あるいは活用することができなかったら、フライト全体のパフォーマンスはその機長一人分のパフォーマンスを超えることはない」
言うまでもなくこのコンセプトの前提は、個々のクルーメンバーには「クルーメンバーとして必要十分な『基本的技能と知識』が備わっている」ことだ。
いくらクルーのリソースを引き出そうにも、そもそも個人レベルでのリソースの蓄積がなければクルー・コンセプトは「絵に描いた餅」にしかならない。
その上で以下のアプローチをする。
「一人の人間の能力にはどうしても越えられない限界があり、その限界を乗り越えるための最も有効な手だての一つが、複数の人間によってチームを組むことなのです。そして、そのチームのトータル・パフォーマンスを高めるために、個人個人が一体どんな考え方をして、どんな行動をとればいいのか」
1977年3月27日、スペイン領テネリフェ島にあるロスロデオス空港で、史上最悪の航空機事故が発生した。
離陸しようとした253人の乗客を乗せたKLMオランダ航空のジャンボ機が、378人の乗客を乗せたパンアメリカン航空のジャンボ機と滑走路上で衝突、583人もの乗客、乗員が死亡した。
世界の航空機事故は、テクノロジーの飛躍的な進歩によって1975年頃までには大幅な減少率を示したが、その後はほぼ横這い状態となっている。
航空機事故の原因究明作業を行ってきたIATA(国際民間航空輸送協会)は1988年に、航空機事故の内の約80%が、コックピットクルーの行動とパフォーマンスにその要因があるとの調査研究報告を出した。
しかもその80%の中には、コックピットクルー個々の知識や技量には関係なく、しかも機材などに致命的な不具合が無いにもかかわらず起こってしまったケースが数多く含まれていることが明らかとなった。
どんな組織であれコミュニティであれ、人間の協働が成立する場所には、必ずリーダーシップが求められる。
組織を活性化させるリーダーシップとは何か? その問いは様々な企業で問題とされ、書店などでもハウツー本が山積みだ。
『機長のマネジメント』(村上耕一 斉藤貞雄 共著 産能大学出版部)は、旅客機のコックピットにおけるリーダーシップの在り方、クルー同士の人間関係などをトータルに検証する興味深い内容だ。
言うまでもなく、何百人という乗客の生命を預かってジャンボなどの大型旅客機を操縦するパイロットは、職業的に最も高度に訓練され、たった一度の失敗も許されない責任を背負って働いている。
本書が描くクルー・リソース・マネジメント(CRM)は、この過酷なストレスのなかで極めて高度な技能を必要とされるパイロットたちが、いかにしてチームワークを保ちながらヒューマンエラーを克服するのかを課題とするもので、一般の企業運営などにも導入されている。
科学から価値は生まれない
分子遺伝学に基づくモノーの見解では、生物における合目的性は、生物のもつ複製の不変性から派生する第二次的な特性である。
現在の世代のもつ構造を次の世代へと正確に複写すること、ただそれだけが生物の目的なのである。
だとすれば、進化と考えられているものは、本来正確であるべきその複写過程で生じたバグ=「まったく盲目的な偶然のなせる業」にすぎないことになる。
この概念は、多くの宗教的イデオロギーや哲学体系を根底から脅かすとモノーは指摘する。
生物の進化は偶然性の連続
ダーウィンが『種の起源』で進化論を提起する以前、ヨーロッパではキリスト教的世界観、人間観が支配的だった。
この世界は神の創造したものであり、生物も人間もすべての存在は自ずから神の意志、目的に沿ったものとして意味付けられていたのだ。
当然にも、様々な動植物が存在する自然界のピラミッドにおいて最高位に位置するのが人間存在であり、人間が他の生物と異なって人間である所以は、神によって与えられた、デカルト的な精神(=生得観念)をもっているからとされた。
こうしたキリスト教的世界観においては、歴史は「神の王国」へと至る進歩と発展のプロセスであり、明確な合目的性を有したものとして考えられたのである。
生物とは何だろうか?
そもそもこの宇宙のなかで生物はいかなる存在として規定すればよいのか?
現在のところ地球外生命体は発見されておらず、生物はこの地球上でのみ観察されている。
問題は、普段何気なく私たちが下す「これは生物、これは生物ではない」との判断の根拠だ。
例えば一定の条件のもとで変化し結晶構造(規則性や連続性)を持つにいたる岩石と、ごくミクロのレベルで細胞分裂を繰り返す細菌をどうやって区別するのか?
表面的な現象としては極めて似ているが、なぜ前者は生物ではなく、後者は生物だと判定できるのか?
この問いに答えることは意外に難しいとモノーは問題提起する。
現代生物学が投げかけた問い
副題に「現代生物学の思想的な問いかけ」と記されたジャツク・モノー著『偶然と必然』(みすず書房)。
1970年にフランスで刊行されるやいなやベストセラーとなり、生物学の領域だけでなく、哲学界や宗教界をも含めた一大論議を巻き起こした現代生物学の名著だ。
1965年に「酵素とウィルスの合成の遺伝的制御の研究」でノーベル医学生理学賞を受賞したモノーは、現代生物学における当時の専門的な知見を駆使しつつ、科学やイデオロギー、そしてより根本的には人間存在そのものへの深い哲学的洞察を行った。
人類は無視界飛行に突入した
黒崎は、科学が「滑りやすい坂道」と化す条件として次の例を挙げている。
(1)社会の民主化の水準
(2)資本の論理
(3)科学者・技術者の学的関心・名誉欲・非社会性
(4)俗流科学イデオロギーの存在
彼が指摘する次のような内容は、人類の命運を左右するかもしれない巨大科学技術の開発・研究を規制し、その暴走を防ぐために最低限必要な視点だろう。
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人類は滑り坂を落ちるのか?
「ヒトゲノム解析計画」が進捗する只中の2000年8月28日付朝日新聞に、「人類滅亡防ぐため科学技術に制限を」とのショッキングな見出しの記事が掲載された。
「インターネットのエジソン」とも呼ばれるコンピューター技術の立役者の一人であり、サン・マイクロシステムズの創設者でもあるビル・ジョイが、アメリカのコンピューター文化誌である「ワイアード」で2000年春に発表したエッセー「なぜ未来は我々を必要としないのか」が国際的な反響を呼んでいることを伝えたものだ。
このエッセーでビルは、2030年には現在の百万倍の能力を持つだろうと予想されるコンピューターの急速な進歩により、遺伝子工学、ナノテクノロジー、ロボットの三分野において人類を滅ぼしうるような危険な技術を誰もが手に入れられるようになると警鐘を鳴らした。
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遺伝子ビジネスが始まっている
1990年10月に開始された国際的プロジェクト「ヒトゲノム解析計画」によって、ヒトの全DNA(ゲノム)のほとんどは解読され、その結果が公表された。
2000年6月にはヒトゲノム全体の約90%にあたる27億塩基のドラフトシーケンス(概要版)が発表され、2003年4月にほぼ全部の塩基配列が決定されたのだ。
こうした研究成果によって、既にDNAによる親子鑑定や遺伝性疾患検査はビジネスとして公然と始まっている。
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形而上学的合理主義は圧政を生む
かつてのソ連邦のようなスターリン主義国家のみならず、「自由と民主主義」を標榜している社会においても、なにゆえ権威主義的な一元論が支配的となりつつあるのか?
バーリンは1953年にロンドンで行った講演記録「歴史の必然性」のなかで、「一般に現代思想において二つの強力な主義・学説は、相対主義と決定論である」と指摘し、この二つの主義・学説の持つドグマに対して自覚的にならなければならないと強調した。
20世紀における思想の危機
イギリス経験論の流れを継承する現代の政治哲学者、アイザィア・バーリン『自由論』(みすず書房)は、20世紀の思想と文明を根底的に捉え返そうとする名著だ。
ここでバーリンは、形而上学的な歴史の必然論や一元論、あるいは科学主義的な真理観を拒否し、人間にとって真理とは何であり、そして価値とは何か、自由とは何かを深く洞察している。
市場原理主義の限界
ハイエクの中心的な問題意識は、初期のイギリス経験論を引き継いでいる。
王や教会権力による一元的な善の押し付け、あるいは経済活動への規制や介入に思想・信仰や経済活動の自由を対置し、それが人間の幸福に結びつくはずだと考えたわけだ。
ゆえに彼は「自生的秩序」としての市場経済に全面的に依拠する。
しかし過度な市場経済の礼讃は、特定の大資本や階級による極めて一元的な社会支配を容認することにつながる。
利己性と公益性
岩波書店『哲学小辞典』は、利己主義(egoism)に関して次のように解説している。
「(1)もっぱら自己の利益のみを大切にして、他人の利益を自分の利益に従属させ、万事をこの観点から判断する態度。(2)個人の利益から出発して道徳の観念や原理を説明しようとする倫理説」
功利主義の倫理説は後者に属し、また「利己主義的倫理説は必ずしも(1)の意味の利己主義を主張するものとはかぎらない」とも指摘している。
イギリス経験論の系譜
『市場・知識・自由』では、ハイエクの問題意識はイギリス経験論の系譜に位置することが明らかとなる。
「設計主義的合理主義」の限界
世界的金融危機のなか、フリードマンなどに代表される「新古典派」が主張してきたネオ・リベラリズムへの批判が強まっている。
国家が出来るかぎり経済過程に介入することは避け、市場原理にまかせて自由な競争を行うことが経済の発展につながるとするネオ・リベラリズム。
市場原理主義では政府の役割放棄にしかならず、格差や貧困は放置されるだけだ。
しかし、そこから市場経済そのものまでも串刺し的に否定することは間違っている。
過度な自由主義が大きな問題を抱えていることは言うまでもないが、だからといって市場経済を否定しても問題は解決しない。
ましてや社会主義的な計画経済の不可能性は歴史的に明らかであり、市場が果たす積極的な役割についてはきちんと踏まえておく必要がある。
官僚制とカリスマ待望
原子力の安全性など、様々な社会的、政治的問題について、その問題を所管する省庁と直接交渉する機会がある。
多くの場合、直接対応に出てくるのは、実質的には当該の問題について何の権限も持たない下級官吏だ。
官僚制を必然化する近代国家
ウェーバーは、彼の社会科学の方法論である「価値自由」の立場から、発達した近代国家、特に資本主義が発達した国家なり社会においては、官僚制の発達と完成は不可避だと指摘。
国家であろうと企業であろうと、経営の効率性、合理性を追求するならば、官僚的制度の確立は避けられないと主張する。
近代日本と官僚制
戦後日本社会の中で、自民党の利権政治と一体となって日本の行政を牛耳ってきた官僚機構は、今や完全に行き詰まった。
官僚の腐敗と度重なる不祥事は、日本の官僚機構が根源的な危機に陥っていることを示唆している。
しかしこうした危機の打開を、強烈な個性や能力を持った政治指導者の登場にのみ求めることは危険だ。
同時にそれは決して問題の本質的な解決にはなりえない。
合衆国憲法に記された「進歩条項」
レッシグは、1998年に成立した著作権延長法(Sonny Bono Copyright Term Extension Act,CTEA)が、憲法違反であると訴えた裁判を闘う。
エルドレッド裁判と呼ばれるこの裁判は、アメリカの連邦最高裁において2002年から2003年にかけて争われた。
文化的創造性を育むためには
IT化が日本より10年は先を行くインターネット発祥の地アメリカ。
アメリカの憲法学者ローレンス・レッシグは、インターネットの普及に伴うテクノロジーの高度化により、創造的な自由な文化の可能性が奪われつつあると警鐘を鳴らしている。
イギリス・ブレア政権の掲げた政策は、「第三の道」と呼ばれてきた。
これに大きな影響を与えたのは、ニューレーバーのブレーン、社会学者のアンソニー・ギデンズだ。
メリトクラシー(能力業績主義)
ブレアは首相に就任する前の労働党大会で、こう強調した。
「私にやりたいことは三つある。それは、教育、教育、教育だ」
「結果の平等」ではなく、「機会の平等」を目指すニューレーバーの「社会的包摂」戦略にとって、働くために必要な知識や技術を、恵まれない環境に育った人に提供することこそが鍵となる。
続きを読む: 「第3の道」を模索した『ブレア時代のイギリス』(4)
福祉から労働へ(welfare to work)
サッチャーは、「小さな政府」を作るにあたって、「社会などというものは存在しない」と語った。
社会=コミュニティーで人々が相互扶助するのは幻想だとするこうした考えの下で、なんでもかんでも「官から民へ」と移行させてしまったら、そもそも政府は何をすべきなのか?
「夜警国家」を理想とする市場原理主義は、政治そのものの否定にしか行き着かない。
続きを読む: 「第3の道」を模索した『ブレア時代のイギリス』(3)
サッチャリズムに対抗するニューレーバーの登場
イギリス保守党の「鉄の女」=マーガレット・サッチャーは、1979年から90年まで首相に就き、「イギリス病」とまで呼ばれた経済的衰退を克服すべく、徹底した「構造改革」を行った。
政策理念は小泉改革同様の市場原理主義であり、鉄道、電話、水道などの公益事業が次々と民営化された。
規制緩和も金融を中心に産業の各分野で進められ、労働市場も規制緩和されたことで、労働者の権利は奪われていった。
一方所得税の累進制は大幅に緩和され、富裕層の支払う所得税が引き下げられ、法人税の減税も進められた。
金持ちと企業を優遇する政策だ。
小泉改革とほとんど同じことをサッチャーは80年代に実施した。
続きを読む: 「第3の道」を模索した『ブレア時代のイギリス』(2)
「大きな政府」でも「小さな政府」でもない「第3の道」
小泉「構造改革」は、急速に日本をアメリカ型の弱肉強食社会に転換し、今や格差や貧困は重大な社会問題となっている。
改革の中心的なイデオローグであった竹中平蔵氏は、フリードマンなどに代表される「新古典派」の考え方を掲げた。
アダム・スミスなど古典派経済学が提唱した「レッセ・フェール」(自由放任)。
政府が経済過程に介入することはできる限り避け、市場原理にまかせて自由な競争を行うことこそが経済の発展につながるとの考え方だ。
続きを読む: 「第3の道」を模索した『ブレア時代のイギリス』(1)
貴族政治は賢明に行動する!?
19世紀初頭にトクヴィルが預言したこと、突き出した問題は、20世紀を通じて実証されてきた。
トクヴィルが「貴族主義は民主主義的自由主義に勝利し得ない」と預言した通り、一握りの指導者による目的論的、設計主義的な社会建設の典型だった社会主義は完全に破産した。
ヨーロッパ貴族主義を凌駕したアメリカの大衆民主主義
没落貴族の末裔としてフランス革命後の激動を経験していたトクヴィル。
彼は、1831年から32年にかけて独立後のアメリカに渡り、建国の息吹が吹き荒れるアメリカ社会を見聞した。
この旅を通じてトクヴィルは、民主主義と商業主義を標榜する社会の到来は不可避であり、その結果ヨーロッパ的貴族主義よりもアメリカ的な大衆民主主義が勝利すると喝破したのである。
EUを生んだ「平和のための連邦論」
統一通貨ユーロ(EURO)を導入したEU(欧州連合)は、これまでにない国境を超えた政治、経済体制を確立しつつある。
ヨーロッパ合衆国の建国までをも射程に入れた新たな国家連合は、アメリカの一極的な世界支配に対抗する政治力学だけでは計れないビジョンを有している。
ホンダがアメリカ市場で成功した鍵は?
ミンツバーグは、アメリカのオートバイ市場でイギリス車との競合に打ち勝ったホンダの成功について分析するなかで、各スクールを評価する。
英国政府の依頼を受けて、ホンダの勝利の根拠を分析したボストン・コンサルティング・グループ(BCG)の分析は次のようなものだった。
「日本のオートバイ産業、なかでもマーケット・リーダーのホンダは、一貫した構図を示している。日本の製造メーカーの基本的理念は、資本集約型で高度にオートメーション化した技術を駆使することで、車種ごとの大量生産・大量販売が可能になる。彼らのマーケティング戦略は、これらの大量生産車種の開発に向けられ、したがってわれわれが考察したとおり、成長性とシェアの獲得に多くの関心が寄せられている」
BCGは、ホンダが資本集約型の大量生産車種を売り込む明確な戦略でアメリカ市場に参入したことで成功を収めたと分析している。
この分析は、かつて日本の輸出主導型製造業の躍進の根拠として最も一般的に言われていたことでもある。
しかし、実際にアメリカ市場への参入にチャレンジしたホンダのマネジャーたちは、次のように語った。
強力な起業家の多くは最後に失敗する
戦略マネジメントは非常に複雑で微妙なプロセスであり、一朝一夕で主体化できるようなものではないし、ましてや計算機で叩き出せる類のものでもない。
戦略マネジメントのこうした困難性を考えたとき、戦略形成を成功した起業家のメンタル・プロセスとして捉えるアントレプレナー・スクール(THE ENTREPRENEURIAL SCHOOL)の持つ位置は独自であると共に、ある意味で最もリアリティを有しているかもしれない。
コンピュータは戦略をはじき出せない
目標到達のコンセプトを明確化し、その理念から現実にアプローチしようとするデザイン・スクール。
しかし現実は常に不確実性に満ちており、理念と現実は常に乖離する。
この乖離をどう埋めるのかを巡るアプローチは大きく言って三つに分かれる。
デザイン・スクールがはらむ設計主義の限界
『戦略サファリ』の内容の大半は、戦略マネジメントを巡る10の学派の紹介とその批評に当てられている。
ミンツバーグが真っ先に取り上げるのは、デザイン・スクール(THE DESIGN SCHOOL)だ。
この学派は、戦略マネジメントの研究に最も影響力を与えつづけてきた「コンセプト構成プロセスとしての戦略形成」に焦点を当てている。
戦略に関する議論は両刃の剣
国や企業、そしてNGOなどあらゆる組織では、「目標は何か? どうそれを達成するのか?」が常に明確にされる必要がある。
しかし、時々刻々と変化する状況のなかで、組織の戦略的目標や方向を確定することは、最も困難な作業だ。
ゆえに戦略マネジメントの問題は、多くの組織にとって極めて重大な関心事となる。
厳しい競争にさらされている企業、様々なミッションに取り組むNGOやNPO、そして極限的な状況での行動を要請される軍隊などで、あらゆる組織がこの問題を研究している。
ここでは、欧米で経営学のグル(世界的権威)の一人として高く評価されているヘンリー・ミンツバーグ(Henry Mintzberg)の著書『戦略サファリ』(STRATEGY SAFARI:A GUIDE TOUR THROUGH THE WILDS OF STRATEGIC MANAGEMENT)(東洋経済新報社)を参考に、戦略マネジメントについて考察する。
JR東日本で新幹線運航本部長を務める万代典彦氏は、『失敗に学ぶものづくり』第4章「大量輸送分野 鉄道の安全は衝突事故の繰り返しによって高まった」のなかで次のように述べている。
安全教育とはほど遠い「日勤教育」の愚かさ
JR西日本は、事故直後の記者会見で一方的に「置き石説」を発表するなど、当初から責任逃れの姿勢を見せた。
当然にもこうした組織体質に対して厳しい批判が起こった。
続きを読む: JR西日本福知山線脱線事故はなぜ起きたのか?(2)
過密ダイヤとスピードを優先させたJR西日本
2005年4月25日、JR西日本福知山線で脱線事故が起きた。
言うまでもなく日本の鉄道は、世界トップレベルの安全性と信頼性を誇り、分刻みのダイヤと運航の正確性は、諸外国からは驚嘆の目で見られてきた。
世界最高水準の日本の鉄道で、航空機事故なみの多数の死者、負傷者を出す重大事故がなぜ起きたのか?
続きを読む: JR西日本福知山線脱線事故はなぜ起きたのか?(1)
変えることができることを手がけよ
未来は絶望的だろうか? 私はそうは思わない。とりわけ物質文明の黄昏に立ち会っている若い世代には、確実にこれまでと違う価値観や世界観が育ちつつある。
例えば若者のクルマ離れは嘆くべきことではなく喜ぶべきことであり、電子部品が詰まった鉄の塊ではなく、自らの体や精神の状態により多くの関心を抱くことが新しい時代の流れになりつつある。
適正規模のコミュニティは人と自然をつなげる
人生の半分以上を社会運動に関わってきた私にとって、シューマッハーの思想は実に刺激的であり示唆に富むものだった。何よりそれは、これまでの運動や組織の在り方、自身の生き方への根源的な捉え返しを迫るものでもあった。
社会変革を志す運動や組織もまた、多くの場合数量的な「成長」という脅迫観念に囚われている。シューマッハーはこの点について「他のものもそうだが、どんな組織にもそれが効力を失ってしまう直前の『臨界規模』があると私は信じている」と述べ、次のように続ける。
人間の棄損には触れない『成長の限界』
『スモール イズ ビューティフル』が話題となったほぼ同じ時期に、ローマクラブは「人類の危機」レポート『成長の限界』を発表した。アメリカ・マサチューセッツ工科大学(MIT)のデニス・メドウズが中心となり、コンピュータ・シミュレーションで弾き出した結論は衝撃的だった。
人口増大や経済成長を意識的にコントロールして急速にペースダウンしない限り、21世紀の半ば近くに人類は深刻なカタストロフィに直面する。世界人口は半減し、工業はストップする。技術開発や新たな資源・エネルギーの発見によってこの危機を回避することはできない。地球環境は有限であり、自然の再生能力には限界があるという当たり前の事実は決して動かすことはできないと指摘した。
「われわれは、地球という天体のもつ物理的制約に関する現在の知識にもとづき、成長の局面が今後100年続くことはできまいと考えている。くり返すが、システム固有の遅れのため、もしも世界社会が、この制約がまちがいなく明らかになるまで待つとしたら、手遅れとなる」
『成長の限界』は、「これらの問題を解決するためになんの行動もとらないということは、強烈な行動をとることに等しい」と繰り返し警告した。しかし残念ながら、このレポートから35年以上経過した今日においても、未だ人類は意識的に経済成長をコントロールすることができない。
精神なき経済学は「愛のないセックス」
1911年ドイツ・ボンに生まれたシューマッハーは、ナチスドイツの台頭を避け37年にイギリスへ移住。第2次大戦中は「ゆりかごから墓場まで」の包括的社会保障を目指したベバリッジ報告の作成に貢献し、戦後は新設された英国石炭公社の経済顧問兼統計局長の職に就いた。
有限な化石燃料に依存した経済は持続不可能だとの確信は、エネルギー産業の現場でリアルに問題と向き合ったことで培われたのだろう。
シューマッハーの哲学をどう引き継ぐのか
世界的金融危機は実体経済にも深刻な影響を与えている。トヨタやソニーなどの世界的リーディング・カンパニーすら大幅な減収・減益を記録し、政治家や経営者は「100年に1度のこの危機は何年続くか分からない」「景気の底が見えない」と嘆く。
しかし、ちょっと冷静になって考えてみよう。人類の長い歴史を振り返れば、この100年余りの間に起こった幾何級数的な経済成長こそが異常だったのだ。
我々は今、歴史上極めて特殊な、そして二度と再び訪れることはない資源浪費型産業社会の終焉に立ち会っている。これまで通りの経済成長を続けることは最早不可能であり、人類は有限な地球環境の限界を超えてしまった。早急に経済全体をダウンサイジングしない限り、破局を回避することはできないだろう。

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