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渡瀬義孝
Ecology
土遊野
東京大空襲 作戦を指揮したカーチス・E・ルメー将軍は天皇と日本政府から勲一等旭日大綬章を与えられた
 63年前の今日、1945年3月10日、東京はB29爆撃機によって空襲された。犠牲となった人々へ心から哀悼の意を表したい。

 その日の夜、飛来した325機のB29は約36万発の焼夷弾を東京・下町の密集地帯に投下。荒れ狂う炎はあっと言う間に町中を覆い尽くし、老若男女を問わず、わずか2時間半で10万人以上が犠牲となった。
 
 米軍はまず町を囲む円を描くように焼夷弾を投下し、炎の壁を作って逃げられないようにした上で、中にいた人々を焼き尽くしたと言われる。
 まさにホロコーストである。

 私が驚愕したのは次の事実だ。
 なんとこの作戦を立案、指揮した米軍のカーチス・E・ルメー将軍は、戦後天皇と日本政府から勲一等旭日大綬章を与えられた。
 その理由は、「日本の自衛隊の育成に貢献した」とのこと。

 戦争で10万人の日本人を殺した張本人が、戦争が終われば日本政府から勲章をもらう。 「鬼畜米英」と叫んで国民を戦争に駆り立てた政治家や軍人のほとんどは、戦後はアメリカに媚びへつらってきた。
 戦争と国家の本当の姿をこれほど端的に示す事実はない。

 以下、東京大空襲直後、学徒兵として10万人の遺体の処理作業に当った須田卓雄さんの体験文。(1970年12月29日付朝日新聞紙上で発表されたもの)
 

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花があったら

昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、
私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、
無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、
初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、
さして驚くこともなくなっていた。

午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。

頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、
倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、
その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。

着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

その人は赤ちゃんを抱えていた。
さらに、その下には大きな穴が掘られていた。

母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。

どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、
その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。

赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。
だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。

わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。
どの顔も涙で汚れゆがんでいた。

一人がそっとその場をはなれ、
地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、
母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。

若い顔がそこに現れた。
ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、
苦痛の表情は見られなかった。

これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。
人間の愛を表現する顔であったのか。

だれかがいった。

「花があったらなあ――」

あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。

私たちは、数え十九才の学徒兵であった。

10/Mar.2008 [Mon] 10:48
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