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吉野ヶ里遺跡探訪(3)邪馬台国はどこに? 首のない人骨が物語る弥生化のプロセスでの争いの激化

2010年7月30日 10:55 | コメント(0) | トラックバック(0)

 吉野ヶ里遺跡では、これまでに弥生前期末から後期にかけての甕棺墓が約2,500基、土壙墓約330基、箱式石棺墓11基が発掘されている。

yoshinogari17.JPG 午前中に立ち寄った展示館では、吉野ヶ里の甕棺内から発掘された貝製腕輪、勾玉、管玉などの装身具や鉄製刀子、石剣の切先などを展示。

yoshinogari18.JPG 甕棺からは、300体以上の人骨も出土している。

yoshinogari19.JPG とくに弥生中期の甕棺から発掘された人骨には、頭部の無いものや、12本もの矢を打ち込まれたものなど、明らかに戦闘による犠牲者と考えられるものが存在する。

yoshinogari20.JPG こうした戦闘の犠牲者と思われる人骨は、弥生時代の初めから紀元前後の弥生中期までの約400年間で、九州地方を中心に100体以上発見されているのだ。

 これら戦闘で犠牲となった人骨の存在は、縄文式採取社会から水田稲作が社会的生産の主軸となっていく、弥生前期から中期の弥生化のプロセスで、水や土地を巡って激しい争いが繰り広げられたことを示唆している。

 だからこそ、吉野ヶ里遺跡のように、何重にも環壕を巡らせて厳重に防禦した集落が必要とされたのだ。

 同時に、稲作によって生じた余剰生産物は階級社会を生み出し、王や支配層は祭祀を通じて統治を正当化し、司祭は最高の権威を有していた。

 水や土地を巡る争いによって、小さな集落はより大きな集落へと吸収されたり、あるいはその支配下に置かれて、強大化した集落はムラからクニへと発展していったと想像できる。

 弥生時代が、中国大陸や朝鮮半島から渡来した人々の文化的影響のなかでつくられたことは、今では周知の事実だ。

yoshinogari21.JPG 当初彼らは縄文系在来人のコミュニティーに入り込んで平和的に共存しながら、稲作や金属器、青銅器などの新しい文化を伝播させた。
 渡来系弥生人と縄文系在来人が争った跡はあまりない。

 しかし、稲作を生産の中心に据えた弥生化が進展し、海岸線平野部での水田開発が目一杯となり、それまで川の上流の山間部で採取生活を営んでいた縄文人たちにも弥生化の波が押し寄せていく。
 このプロセスで、争いが激化していったと考えられている。

 縄文人が平和的で、弥生人が好戦的というステレオタイプのイメージは、こうした経緯のなかで作り上げられたものでしかないので注意が必要だ。

 ところで吉野ヶ里遺跡の発見は、邪馬台国論争で具体的な遺跡がみつかっていなかった九州説にとって強力な証拠となった。

 「魏志倭人伝」では、「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」と、邪馬台国女王卑弥呼の住んでいた集落を表現している。

 吉野ヶ里遺跡の発掘により、「魏志倭人伝」の記述通りの宮室・楼観・城柵を持った大規模環壕集落が、邪馬台国時代よりも100年以上前から九州北部に存在していたことが立証されたのだ。

 しかも、吉野ヶ里は九州北部の弥生の集落の中でも、玄海灘沿岸の「都市」から比較すれば「田舎」の集落だった。

yoshinogari22.JPG 玄海灘沿岸部にはさらに整備された都市が存在していたわけで、これが邪馬台国となったのだとの説には、それなりに説得力がある。

 吉野ヶ里遺跡のガイドに携わる、多くのボランティアや学芸員の人々は、邪馬台国が九州にあったのは当たり前だと考えているようだった。

 「邪馬台国が畿内大和にあったというのは、大和朝廷から天皇制との関係で辻褄を合わせたいだけで、たいした根拠はないでしょう」と語る人もいた。

 邪馬台国論争はさておき、弥生時代はまさに、中国大陸や朝鮮半島との人的・文化的な交流、渡来系弥生人によって創り出された。

 吉野ヶ里遺跡からは、石製農工具・鉄製農工具・銅鏡・鋳型・布・絹など朝鮮半島・大陸との交流をしめす出土品が多数出ている。

 北内郭の入口で見られた鍵形に折れ曲がった構造は、古代中国の城郭都市に多く見られたものだ。

 さらに吉野ヶ里遺跡では、歴代の王が埋葬されている特別なお墓である北墳丘墓から順に、北内郭、南内郭、一般人の住む南のムラと、北から南に序列づけられた構造をしており、これも古代中国の影響を色濃く示している。

 吉野ヶ里で発見された絹は、前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹で、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、それが最初に国外に出たことを確認できたのが北部九州なのである。

yoshinogari23.JPG さらに中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているという解剖学的発見もある。

 今でも芸能人には九州出身者が多いのも、歌舞音響などの文化が大陸から真っ先に九州へもたらされたことを物語っているのかもしれない。
 まさに九州は大陸からの渡来人の玄関口であったのだろう。

 いずれにしても、縄文人と渡来系弥生人は、争いながらも共存の道を選択していった。
 だから日本人ほど多種多様な人種が混じり合っている民族はないとも言われる。

 ちょっと歴史を振り返れば、日本は単一民族などというのが大嘘であることはすぐに分かる。
 同時に、朝鮮や中国などの近隣諸国を人種的に敵視しすることの愚かさもよく分かるはずだ。
 ほとんどの日本人は、渡来人のDNAをしっかりと受け継いでいるのである。
 


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渡瀬義孝 2008年洞爺湖サミットの開催に合わせ自転車で東京~洞爺湖~札幌1500キロを走破したツーリング洞爺湖に参加。持続可能な未来へ向けエコロジーでリベラルなライフスタイルを! yoshitaka@ihope.jp

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