Review
『ミルの大学教育論』専門化ではなく総合教育の必要性を力説したJ.S.ミル
本書はJ.S.ミルが1867年セント・アンドルーズ大学に名誉学長として就任した際の講演をまとめたものである。
就任演説では冒頭で次のように教育について語る。
「教育は色々な人々によって種々様々な観点から是非とも考察されなければならない」
「多面的な問題の中でも、その最たるものが教育の問題である」
「人格の完成というその直接的な目的以外に、例えば、法律、統治形態、工業技術、社会的な生活様式等が、更に人間の意志に左右されない物理的現象、例えば、気候、風土、地理的位置等の、人間の性格と能力とに及ぼす影響などまでも含まれる」
「人間形成に影響を与えるものはすべて、つまり、現在の自己たらしめ、現在の自己からかけ離れないようにさせているものすべて」
まさに教育とは社会全般にかかわっており、人間に影響を与えるもの全てが教育に含まれるとの彼の教育観が示されている。
であるがゆえにまた、こんなことも述べている。
「教育とて、悪い教育も往々にしてあり、その結果、その悪影響を防止するために知性と意志との教化によってなしうることすべてをしなければならないこともある」
本書は、大学教育に限定してミルが語った講演を集めたものだが、そもそも彼は大学教育をどのように位置づけていたのか?
「即ち、既に到達した進歩の段階を少なくとも維持しうる、また、できることならば、それを引き上げることができるような能力を育成するために、各世代がその後継者になりうる人々に授ける教養」
「大学は職業教育の場ではない。大学は、生計をうるためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要となる知識を教えることを目的としてはいないのである。大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにある」
「専門技術をもとうとする人々がその技術を知識の一部分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術に吹き込むかによって、つまり、教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植え付けたかによって決定される。人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのである」
「大学で学ぶべきことは知識の体系化についてである。つまり、個々に独立してる部分的な知識間の関係と、それらと全体との関係とを考察し、それまで色々なところで得た、知識の領域に属する部分的な見解をつなぎ合せ、いわば知識の全領域の地図を作り上げることである。現に実在しているものすべてが種々様々な特性からいかに構成されているかを考察することである」
「というのも、全体が考慮に入れられなければ、われわれはそれらを単なる抽象として知るだけであって、『自然』の一事実として真に知ることはありえないからである」
「各部門が、われわれ人間が共有する性質を強化、高揚、純化、洗練するという人類共通の目的に到達するためには、そして、また、人間が一生を通じてなすべき仕事に必要な精神的道具を供給するためには、いかに協調し合うべきであるのか」
「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させること」
「人間精神が扱うことのできる主題のなかで最も複雑なものは政治と市民社会である。それ故、一政党に盲目的に追従する人としてではなく、思慮ある人としてその双方に適切に対処しうる人になるためには、精神的、物質的生活両面の重要な事柄についての一般的な知識が要求されるだけでなく、正しい思考原理と法則によって、単なる生活体験、一科学または知識の一分野では提供しえない段階まで、訓練され、鍛え上げられた理解力が必要となる」
「われわれの学問の目的は、単に将来自らの仕事に役立つような知識を少しでも多く身につけるということにあるのではないということ、むしろ、人間の利害に深く関わるありとあらゆる問題について、何らかの知識を、しかも正確に把握するよう気を配り、われわれが確実に知っていることとそうでないことの境界線を明らかにするということにこそある」
ミルは政治や社会と総合的に向き合う実践的な判断力、思考力の育成を極めて重視していたことが分かる。
それは結局、人間がより幸福に暮らすことができるより良い社会を創造することこそ、教育の究極の目的だと考えていたからだろう。
これは、彼の歴史観にも端的に現れている。
「単なる物語としての歴史ではなく、現に自分の目の前で解きほぐされつつある、しかも自分自身と自分の子孫にとっても重要な結果を内に孕んでいる因果の連鎖としての歴史、人類が幸福に至るあるいは悲惨な状態に陥る、高邁な精神をもつに至るあるいは堕落に陥る、過程を描く一大叙事詩、または劇的場面の展開としての歴史、たとえどんな人間によってあろうと、その一つ一つが一事例である善悪二つの勢力の絶え間ない闘争、つまり、正しき側に組みしないものはすべて悪の側に結局は荷担することになるが故に、影響力をもたない人といえどもそれに関わることから逃れることができず、また、その規模が大きかろうと小さかろうと、その結果が眼に見えるものであろうとほとんど眼につかないものであろうと、われわれの誰もそれに関与した責任を回避することができない闘争としての歴史、に興味をもたせることにある」
ミルは講演を通じて若き学生たちに学問の意義を説き、精神的な発展を希求し探求心を持って向上する「進歩する人間」たれと熱く語った。
「たとえ教育によって学生がこの戦いのための武器となる完全な政治哲学あるいは歴史哲学を支給されることがないとしても、市民としての義務に直接関係のある事柄の多くについて積極的な教育を受けることはできる」
そして、道徳教育、宗教教育に関しては、意見の相違はむしろ当然であり、その差異をどう埋めていくことが出来るのかが大切だと説いた。
「結果そのものを教えることだけではなく、その結果に到達するまでの過程を示すことを目的としているならば、同等の能力を持ち、真理に到達するために同等の努力を払ってきた人々の間にさえ極端な意見の相違がある問題に関しては、なおのことそうすべきである。意見の相違があるということが、おのずと良心的な教師に、自分には自らの意見を権威的に若者の精神に押しつける権利などないのだ、ということを痛感させる一種の警告になる」
そして講演の最後に、青年時代の勉学の究極の目的についてこう語った。
「自分自身を『善』と『悪』との間で絶え間なく繰り返されている激しい戦闘に従軍する有能な戦士に鍛え上げ、人間性と人間社会が変化する過程で生じ、その解決を迫る、日々新たな問題に対処しうる能力を高めることである」
まさにミルの大学教育論は、総合教育の必要性を力説したものだ。
しかし、現代社会は複雑化し、分業と専門化は飛躍的に進んだ。
この時代に、ミルの掲げた総合教育を実現するのはほとんど不可能に近い。
しかし、資源やエネルギー、環境、汚染などの文明の危機がより総合的に迫っている21世紀において、今一度ミルの投げかけた問いを振り返るのは決して無駄ではあるまい。
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