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社会主義経済計算論争(1)計画経済を批判したミーゼス
歴史上初の社会主義国家だったソ連邦は、成立からわずか70年余で崩壊した。
ソ連邦の崩壊は、明らかにその下で生活していた人々が、社会主義体制に希望も喜びも見出すことができず、三行半を突きつけたことによって起きた。
それから既に20年近く経過した今日もなお、「社会主義」を政治的信条として掲げている人々がいる。
しかし社会主義を巡る問題は、経済的なリアリティを抜きにして語ることはできない。単なる信仰告白では済まされないのである。
その意味で、ロシア革命直後からヨーロッパの経済学者、社会主義者のなかで行なわれた「社会主義経済計算論争」は、今日的にも非常に示唆に富む視点を突き出している。
この論争に関し、日本の左翼はほとんど関心を示してこなかった。それはまさに、日本における左翼運動の大きな限界だったと言えよう。
『原典 社会主義経済計算論争』(ロゴス社刊)を参考に検証してみたい。
「社会主義経済計算論争」の発火点となったのは、ロシア革命直後の1920年にオーストリアの経済学者、ルドウィヒ・フォン・ミーゼスが提起した論文『社会主義共同体における経済計算』である。
ミーゼスはこの論文の序論において次のように語った。
「多くの社会主義者にして全然経済の問題を理解せず、人間社会の特質を決定すべき条件についての何らかの明確な概念を自ら構成しようとする試みを全くなそうともしない者がいる」
「彼ら空想家たちは、想像上の理想郷においては、ロース焼の鳩が同志たちの胃の腑に何らかの方法で自由に飛び込んでくるであろうというようなことを、例外なく説明しているが、しかもこの奇蹟が如何にして起こるかを示すことは省略している」
ミーゼスは、資本主義を批判する社会主義者が社会主義そのものについては原理的な主張しかせず、実際の社会主義経済の在り方について何ら具体的な議論を行なっていないことを批判した。
結局ミーゼスのこの批判は70年後に現実のものとなり、社会主義ソ連邦は、生活必需品すらまともに供給できない経済的破綻のなかで死滅した。
ミーゼスの主張のポイントは、社会主義共同体における経済計算は不可能であり、中央当局による計画経済では合理的経済活動を行なうことはできず、破綻する以外ないと指摘した点にある。
批判の背景には、1919年ドイツのバイエルン・レーテ共和国で中央計画局の長官を務めたオットー・ノイラートの著書『戦争経済から実物経済へ』が存在する。
この本のなかでノイラートは、「価値」や「貨幣」をなくした実物経済の可能性を主張し、実際に革命ロシアにおいては戦時経済体制のもとで一時的に貨幣が使用されなくなり、配給が主要形態になった。
ミーゼスはこうした経済は持続不可能だと喝破したのだ。
ただしここでミーゼスが批判の対象としている社会主義経済とは、中央当局によって一元的に生産と配分が決定されるものをイメージしている。
後に述べるように、社会主義擁護の側に立つ論者たちはミーゼスの批判に対応し、中央集権型ではない分権的で機能的な社会主義を摸索していくことになる。
逆に言えば、少なくともこのミーゼスの提起を巡る議論のなかで、中央集権型の社会主義経済建設は不可能であろうことは大方認められていたのである。
にも関わらず、政治的にこの議論をなで切っていったソ連邦では、これ以後も相変わらずゴスプランによる極度に集権化された経済建設を継続し、最後には自壊した。
ともあれ、ミーゼスの論議の核心を押さえよう。
「未来の社会主義社会の性質を次ぎのように予想してみたまえ。そこには数百数千の工場が作業している。これらの中の極めて少数のもののみが完成消費財を生産しているに過ぎず、生産される大部分のものは未完成財と生産財であろう。
これらすべての企業は相互に関連し合っている。あらゆる財貨はそれが消費財に完成するまでにこの全段階を通らなければならない。しかしこの過程の休みなき遂行において、経済管理当局はそれらの諸関連を検証すべき何らの手段方法をもたない。
一定の財貨が必要な生産過程に不必要に長い時間置かれていなかったかどうか、またはその完成過程に労働と資材が浪費されなかったかどうかを当局は確かめることはできないであろう」
「最も安価な方法を発見するためには計算を行なわなければならない。この計算は当然、価値計算でなければならない。それが技術的性質のものではあり得ないこと、およびそれが財貨と用役との客観的使用価値の上には基礎づけられえないことは、極めて明白であり、証明を要しない」
つまりミーゼスは、最終生産物の質と量だけでは合理的経済活動を検証することにはならず、中間過程を含む全ての生産財、原料、労働力などの価値を折り込み、関連づけた総合的な経済評価がなされなければならないと指摘したわけだ。
ミーゼスにとってこのような複雑な評価が可能な場所は、貨幣経済を通じてすべての生産手段や原料、労働力が不断に価値評価されている市場に他ならない。
「生産手段の私有および貨幣の使用からわれわれが一歩離れることは同時に合理的経済から離れることである」
ここでミーゼスは、『反デューリング論』におけるエンゲルスの主張を紹介した上でこれを批判する。
エンゲルスは労働価値説に基づいて次のように主張した。
「社会が生産手段を掌握し、それらを直接に社会化した形態で生産に用いるように至るや否や、各人の労働は、如何にその特殊的有用性が異なっていようとも、最初から直接に社会的なる労働となる」
「社会は簡単に、どれだけの労働時間が一蒸気機関や、今年の小麦の1クォーターや、一定品質の100ヤードのリンネルなどのうちにふくまれているのかを計算することができる」
「人々は一切万事を、はなはだ有名なる『価値』の介入なしに、簡単に処理するであろう」
つまりエンゲルスは、社会は日常的経験からあらゆる財について社会的必要労働を算出し、生産計画を決定することが可能だと、極めて楽観的に考えていたわけだ。
しかし、経済計算がこれほど単純なものであるならば、ソ連邦は決して死滅する必要などなかっただろうし、社会主義中国が市場経済を導入する必要もない。
ミーゼスはこうした労働価値説に基づく経済計算の限界をこう指摘した。
「一時間労働を支出した人にはまた一時間労働の生産物を消費する権利を与えるというように調整することは決してできない。たとえ労働および生産物の品質上の相違の問題を度外視し、その上一定の財貨によって表される労働の量が評量されうるものと仮定してさえも、そうである。
何故ならば、すべての経済財貨の生産は実際の労働の他になお原料の費用をも必要とするからである。より多くの原料が使用されている財貨は、より少ない原料が使用されている財貨を同一価値のものとして計算することは絶対にできない」
今から考えれば当たり前の議論だが、イデオロギー過多の社会主義者はこの批判を受け止めることができなかった。
社会主義者は経済運営についてほとんど具体的な検討をせず、「価値の死滅」とは一体何を意味するのかについてきちんと検証しなかった。
実はその矛盾は、産声を上げた社会主義ソ連邦でも早々と立ち現れつつあったのだが、それらは政治的、イデオロギー的に圧殺されてしまったのである。
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