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西田哲学と「近代の超克」論(6)体系化の誘惑に抗しホーリスティックな感覚をどう呼び覚ますのか
戸坂と対照的なのは、梯明秀の西田評価だ。
梯は、1937年『学生評論』に、その名もズバリ「西田哲学を讃ふ」と題した評論を掲載。マルクスの『経済学・哲学草稿』を西田に紹介したのも自分であると主張していた。
梯は当時の左翼の哲学について次のように批判していた。
「甚だ多くの唯物論者が行為的自己の哲学的自覚を怠って、ただ知的自己の立場から物を言ってゐる」
そして「対象の認識といふことは、実在の影像でなくして生命の表現でなければならない。ここに知識の客観性があるのである」との西田の主張を評価し、これを「媒介的、批判的に摂取する」ことによって「唯物論者が知ると言ふとき、それは実践的に認識することであり、身をもつて分析すること」ができる哲学体系を創造しなければならないと主張したのだ。
梯は「唯物論者は物質を絶対化せねばならぬ」と語る。
「有の過程的限定と無の場所的限定との矛盾的同一性に絶対有の弁証法があると私は主張したいのであるが、これは前秩序的な物質が新なる秩序を次から次へと形成してゆく自己運動を意味するのである。制度が制度を否定してゆく社会史はこの物質の自己運動の最も具体的段階におけるものである」
「『資本論』の弁証法も決して対象論理的に把握しうべきでなく、却て(西田)博士の行為的直観の立場から各自主体的に展開しうべきものなのである」
つまり主体即客体の実践的認識を西田の絶対矛盾的自己同一・行為的直観の立場として理解し、これを自らの「物質の哲学」へ適用しようとした。
梯にとって「物質の自己運動」論は、場所的弁証法のみでなく、過程的弁証法こそを重視すべきなのだが、西田のエピゴーネンたちはその意義を全然理解していないというのが彼の主張だった。
実際、物質が「新なる秩序を次から次へと形成してゆく」と考えるこうした哲学は、『善の研究』で示された西田哲学の体系と極めて近似的だ。
弁証法の実在化と実体化に陥った戸坂と同様、西田哲学の体系のなかに包摂されてしまう内容だった。
総じて戦前の左翼思想は、主観主義と客観主義、模写説と構成説などの対立を止揚する方法として、結局は人間と自然のどちらをもその背後から司る普遍的真理なるものを措定したのだ。
三木は「協同主義の哲学」において「歴史の理性」を見いだそうとし、戸坂は弁証法の実在化を主張し、「弁証法的唯物論」を唯一の科学であり、真理であるとした。
あるいは梯は「物質の哲学」を創造しようとした。
彼らにとって西田哲学との「対決」は、あたかもヘーゲルの「絶対精神」に対してヘーゲル左派の論客達が、「唯一者」や「自己意識」を対置することで批判に置き換えたのと同様のものだった。
本来マルクスは、そのヘーゲル左派の観念性と思弁性を止揚・克服しようとしたはずだが、戦前の左翼の論客たちは、どうしても西田哲学のほうに引っ張られてしまったのである。
10年程前の私は、こうした戦前の左翼の西田哲学への傾斜について、次のように批判していた。
「世界の本質や起動力を何か統一的で普遍的な実体に求めていくのではなく、あくまでも人間の生活の再生産の在り様、そこで人間が人間と、そして自然と取り結ぶ社会的諸関係そのものを基軸として歴史や社会、そして人間と自然を能動的、実践的に捉えていくことが必要だ」
「マルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』が、マルクス自身の思想形成において、神学と科学主義のパラダイムを止揚していくためにいかに大きな位置を有していたのかを、今さらながら確認しないわけにはいかない」
「このマルクスの思想形成を追体験することができなかったことが、戦前の左翼思想家のほとんどが、西田哲学に足を掬われ、その結果当時の国策イデオロギーに巻き取られたり、あるいはそれに抗しきれずに敗北した重要な一因となったのであろう」
私は現在、こうした批判が極めて表層的であったと自覚している。
ここでの批判は、人間と自然の関係に関する極めて合理主義的なアプローチに依っている。
それは私の参照先であったマルクス自身が、近代合理主義の枠組みから逃れることはできなかったことに起因している。
マルクス主義は、自然や世界と人間存在のホーリスティックな関係についてはほとんど何も語らない。
だからこそ今世紀初頭、ヨーロッパではハイデッガーが、日本では西田哲学が大きな影響力をもった。
それは人間存在の根底に横たわるホーリスティックな直観を呼び覚ましたからだ。
ただし西田にしろハイデッガーにしろ、その最大の限界は、このホーリスティックな感覚を体系化しようとしたことにある。
思想として、哲学として、体系化の欲望に負けたのである。
だが考えてみよう。
そもそも自然を体系化することは可能だろうか?
宇宙を体系化することは可能だろうか?
人間はその全体性のなかに間違いなく存在しているが、だからといってそれを体系化できる保障は何一つない。
それどころかある体系化の試みは、別の体系を排除し、切り捨てることを意味する。
では歴史上、自然と人間について極めてホーリスティックな哲学を打ち立てながら、同時に体系化の道を拒否した思想はあるのか?
私はまさに、仏陀などが切り拓いた東洋の思想のなかにその可能性を見出せると考えている。
世界に対するホーリスティックな感覚は、言語化される以前の身体的感覚のなかにこそ豊富にある。
ヨガはそれを呼び覚ます手段の一つだろう。
私が合気道の稽古に没入するのも、まさにこうした感覚を自分のなかに呼び覚ますためなのである。
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