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西田哲学と「近代の超克」論(2)「純粋経験」による主客合一
『善の研究』の第一編で西田が展開する「純粋経験」こそ、近代主客図式を克服せんとする西田哲学の最重要の基礎概念だ。
西田は、西洋的な「有の哲学」に「無の哲学」を対置しようとした。
その背景について下村寅太郎は次のようの述べている。
「『善の研究』の、やがてまた西田哲学一般の基礎には禅的体験がそれの重要な思想動機の一つとして存するように思われる」
実際、西田は金沢時代の十年間、休暇となれば常に禅堂において打坐し、「打坐越年」が当たり前だった。
家庭で正月を迎えたことなど殆どなかったと言われている。
ともあれ、以下『善の研究』の具体的内容を検討しよう。
第一章「純粋経験」においてはこう述べる。
「純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である」
「我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。たとえば一生懸命に断崖を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続perceptual trainといってもよい。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう」
「如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡ての精神現象がこの形において現れるものであると信ずる」
西田はこれを出発点として、思惟、意志、知的直観と論を進め、それらが全て純粋経験に属する意識現象であると主張する。
そしてこれらは単なる認識論ではなく、その根底に独自の存在論をはらむものなのだ。
例えば、第二章「思惟」では、思惟と経験とは区別できないと語る。
「我々は普通に思惟に由りて一般的なる者を知り、経験に由りて個体的なる者を知ると思うている。しかし個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後における潜勢力である、個体の中にありてこれを発展せしむる力である、たとえば植物の種子の如き者である」
第三章「意志」でもこう述べる。
「意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られておらぬ、個人とは意識の中の一小体系にすぎない。我々は普通に肉体生存を核とせる小体系を中心としているが、もし、更に大なる意識体系を中軸として考えてみれば、この大なる体系が自己であり、その発展が自己の意志実現である」
まさに存在論的に言えば、ヘーゲルにおける一般者=「果物なるもの」と同様のものを措定しているわけである。
ただヘーゲルの場合は、感性的直観から絶対知に至る意識の経験の学として、終局が端緒であり、端緒が終局であるとの存在論に支えられた円環構造をなしていた。
ゆえに感性的確実性は最も抽象的なものとして措定され、それが意識の経験の旅のなかでより具体的で豊富なものになり、真理へと至っていくベクトルを有していた。
しかしこの段階の西田にあっては、打坐も媒介としたインド哲学の影響の下に、言わばこのベクトルが逆向きになっている。
純粋経験こそが真理であり最も具体的なものであるという、独自の現象学的存在論とも言うべき内容を展開している。
このことは第四章「知的直観」において一層明らかとなる。
「普通の知覚が単に受動的と考えられているように、知的直観もまた単に受動的観照の状態と考えられている。しかし真の知的直観とは純粋経験における統一作用其者である、生命の捕捉である、即ち技術の骨の如き者、一層深くいえば美術の精神の如き者がそれである。
たとえば画家の興来り筆自ら動くように複雑なる作用の背後に統一的或者が働いている。その変化は無意識の変化出はない、一つの物の発展完成である。この一物の会得が知的直観であって、而もかかる直覚は独り高尚なる芸術の場合のみではなく、すべて我々の熟練せる行動においても見る所の極めて普通の現象である。
普通の心理学は単に習慣であるとか、有機的作用であるとかいうであろうが、純粋経験説の立場より見れば、こは実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。
知的直観といえば主観的作用のように聞えるのであるが、その実は主客を超越した状態である、主客の対立はむしろこの統一に由りて成立するといってよい、芸術の神来の如きものは皆この境に達するのである」
十年ほど前の私は、こうした西田の思弁を形而上学としてネガティブに見ていた。
しかしここで西田が述べていることは、まさに合気道の精神世界に完全に符合するものだ。
西田はこんな指摘もしている。
「思想はどこまでも説明のできるものではない、その根底には説明し得べからざる直覚がある、凡ての証明はこの上に築き上げられるのである。思想の根底にはいつでも神秘的或者が潜んでいるのである」
「凡ての宗教の本にはこの根本的直覚がなければならぬと思う。学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれに由りて成立するのである」
「頭でっかちの哲学や思想はもういい」と考え、合気道の世界にのめり込んだ私は、今になってはじめて西田の問題意識を実に鮮明に理解できる。
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