Aikido
ボーアが水鉄砲で実証した受け身の能動性 心身能力も関係主義的に規定される
合気道における身体パフォーマンスには、反射神経やスピード、筋力はほとんど関係ないと言われる。
相手の気を察し、それと一体化しつつ相手の身体パフォーマンスと融合する。
その結果、相手の力やスピードを利用して技をかけることが可能になる。
口で言うのは簡単だが、これを会得するのは簡単ではない。
ついつい自分自身のスピードや力に頼ってしまいがちだ。
その根底にはやはり、自分の身体能力を実体主義的に(他のものとは独立したものとして)考えるエンドクサ(憶見)から逃れられない心理的問題が大きく横たわっている。
こうしたパラダイムを突き崩す実験をしたと言われるのは、デンマークが生んだ天才原子物理学者のニールス・ボーアである。
「量子力学の父」とも言われたボーアは、西部劇の大ファンでもあったらしい。
私も小学生の頃、テレビで放映される映画のメインはマカロニ・ウエスタンだったから、夢中になって観た記憶がある。
そこで出てくる決闘シーン。
相手と向かいあって腰にぶら下げた拳銃を抜く。
より早く拳銃を抜き、より正確に相手を射撃したほうが勝つ。
映画では、「正義の味方」は決まって相手に先に拳銃を抜かせる。
にも関わらず、後に抜いた「正義の味方」は必ず勝つ。
ボーアはこれが本当に可能なのかを実験したらしいのだ。
助手に水鉄砲による決闘をさせたらしいのである。
その結果、やはり相手の動きに合わせて後から銃を抜いた方がより早く、より正確に射撃できたらしい。
これは一体どういう訳か?
先に撃とうとすれば、まず脳が指令を出し、その指令に従って肉体が動く。
しかし相手の動きに合わせて後から銃を抜けば、脳を介することなく直接肉体が反応するからその方が早い。
これが理屈らしいが、合気道において「受け身の能動性」と考えられていることに通じる。
合気道の稽古では、技をかける取りの側は常に相手の攻撃を受ける状況から始まる。
こちらから先に攻撃することは想定していない。
「先手必勝」ではないのである。
もし「先手必勝」と考えるのであれば、相手が反応できないほどのスピード、相手が受けきれないパワーを獲得するのが最大の課題となる。
しかし合気道の考え方は、こうした実体主義的な身体パフォーマンスとはまったく異なる。
あくまでも相手のスピードやパワーを逆に利用するのである。
相手のパワーやスピードが強烈なほど、こちら側のパワーやスピードが加速される。
まさに相手との関係性のなかで自己の身体パフォーマンスも発揮されると考えるのである。
ところでボーアは、量子論が解明した粒子と波の二面性や位置と速度の不確定性などの世界像を「相補性」と名付けた。
世界を構成するのは実体としての粒子であり、その粒子が持つ質量と運動エネルギーによってあらゆる物理現象を解明できるとしたニュートン力学以来の実体概念を根底的に突き崩したのが「相補性」の概念である。
光は粒子としての性質と波としての性質の両方を兼ね備えていること。
あるいは物質の位置を確定するためになんらかの観測行為(例えば光を当てるなど)を行えば、それ行為自身が物質にエネルギーを与えて位置をズラすから、正確な位置と速度を同時に観測することは不可能であること。
こうした量子力学の概念は、少なくとも物理学の領域では今日、当たり前のものとして認識されているが、これは物理学だけの問題ではなく、私たちの世界観や人間観にまで大きな影響を与えうる革命的な発見だった。
ボーアは晩年、量子物理学と東洋哲学に類似性があると東洋哲学を研究したようだ。
ボーアの次の言葉は、まさに西洋物質文明が行き詰まりつつある今日、大きな意味を持っていると考えられる。
「原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない」
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コメント(5)
「受身の能動性」が高いパフォーマンスを発揮するためには、受ける側がニュートラルな状態にいることが必要かと思います。「自然体」と言いましょうか。受ける側に組手に対するエンドクサがあると構えに表れ、受身のつもりが、こちらが何をしようとしているかを相手に知らせることになってしまいます。テレフォンパンチとかそういうやつですね。
トトさん
おっしゃる通りですね。
まさに受ける側の精神的な状態がきわめて穏やかなこと、平穏であること、これが核心です。
この点こそ合気道の極めてメンタルな側面でしょう。
まさに「無我」の状態が理想ですが、これがなかなか難しい。
ただし、煩悩にわずらわされている普通の人間が、自らを省みることに意味があると考えるしかないですね。
>まさに「無我」の状態が理想ですが、これがなかなか難しい。煩悩にわずらわされている普通の人間が、自らを省みることに意味があると考えるしかないですね。
「煩悩」「煩悩じゃない」と分節しているのも人間です。そーいう風に言えば動物なんて煩悩だらけなのに無我です。煩悩にわずらわされるのは認めようとしないからで、あー煩悩があるんだなーって放っておけばわずらわされたりしませんよ。
内田樹の本に、弓の存在すら忘れた弓の名手のことが書いてありましたね。
本当の名人はそこに行き着くと。
う~む、道は遠いですね。
名人に近い人がわれらの先輩にいますね。
名手かどうかは知らないけど。
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