Review
ジャツク・モノー『偶然と必然』 現代生物学の名著が探る生命の深淵(4)
科学から価値は生まれない
分子遺伝学に基づくモノーの見解では、生物における合目的性は、生物のもつ複製の不変性から派生する第二次的な特性である。
現在の世代のもつ構造を次の世代へと正確に複写すること、ただそれだけが生物の目的なのである。
だとすれば、進化と考えられているものは、本来正確であるべきその複写過程で生じたバグ=「まったく盲目的な偶然のなせる業」にすぎないことになる。
この概念は、多くの宗教的イデオロギーや哲学体系を根底から脅かすとモノーは指摘する。
ほとんどの哲学や宗教では、不変性が合目的性に先行するとは考えていない。
むしろそれとは逆の次のような仮説を想定している。
「まず初めに合目的的原理を考え、それによって、不変性が安全に守られ、個体発生が導かれ、進化が方向づけられているというものであり、また、これらすべての現象は原初の合目的的原理の顕在化したものである」
この仮説によって人間は、自分たちが大きくは宇宙的進化自体の一部であるとのレゾン・デーテルを持てる。
モノーによれば、「人類は広大な宇宙のなかの極めて孤独な存在ではない」と安堵することができるわけだ。
そうであるがゆえにこうした観念は、19世紀の科学的進歩主義の中心観念であり、スペンサーの実証主義やマルクス・エンゲルスの弁証法的唯物論の核心にも見出せる。
自ら左翼だったモノーは、ことのほかマルクス主義に関して多くの述べている。
「弁証法的矛盾をあらゆる運動、あらゆる進化の≪根本法則≫に仕立てるのは、やはり自然にかんする主観的解釈を組織化しようと試みることにほかならない」
「エンゲルス自身(もっとも、彼は同時代の科学について深い蘊蓄があったのであるが)、<弁証法>の名において、同時代の最大の発見のうちの二つを排斥しているのである。すなわち、熱力学の第二法則と、(彼がダーウィンを賞賛していたにもかかわらず)進化についての純粋に淘汰の見地に立った解釈とである」
確かにエンゲルスは『自然の弁証法』序論のなかで次のように述べた。
「 宇宙空間に放射された熱は、ある仕方で――それを立証することが将来いつかは自然研究の課題となるであろう――、ある別の運動形態に転化する可能性をもち、その運動形態のもとに熱はふたたび集積し活動的になりうるはずだ」
「物質はどんなに変転しても永久に物質でありつづけ、その属性のどの一つも失われることはありえず、またそれゆえに物質は、それが地球上でその最高の精華、思考する精神をふたたび消滅してしまうであろうその同じ鉄の必然性をもって、この思考する精神をいずれかの場所、いずれかの時にふたたび生みだすにちがいない」
こうしたエンゲルスの見解に対して、モノーは次のようにコメントする。
「エンゲルスが熱力学の第二法則を否認するにいたったのは、その法則が、人間および人間の思想が宇宙的進歩の必然的所産であるという確信に危害を与えるように、彼の目に見えたから」
「レーニンがマッハの認識論をじつに猛烈に攻撃したのも、またもっと後で、ジュダーノフが《コペンハーゲン学派のカント主義的な悪企み》を攻撃するようロシアの哲学者たちに命じたのも、ルイセンコが遺伝学者たちにたいして、彼らが弁証法的唯物論と根本的に両立しない虚妄な理論を主張しているといって、非難を浴びせたのも、すべて同じ原理にもとづいている」
弁証法的唯物論は、形而上学的な真理を措定し、宿命論的な歴史観を内包する、キリスト教神学と似通った体系の思想に過ぎない。
この事実はバートランド・ラッセルが早くから指摘し、その後現代思想においても暴かれてきた。
ゆえにモノーが現代生物学からアプローチし同様の結論に達したことはうなずける。
しかしここからモノーは、やはり専門的な生物学者であるからか、極めて科学主義的な傾向を強めていく。
これまでの社会主義的イデオロギーを全面的に放棄すべきであると主張する一方で、モノーはこう語る。
「知識の倫理は、私の見るところでは、真の社会主義を築くための基礎となるべき、理性的であるとともに、断固とした理想主義的な唯一の態度なのである」
ここでの「知識の倫理」とは、客観性の公準をもった、つまり科学的客観性に裏打ちされた知識にのみ依拠する倫理的選択を指す。
しかし既に見てきた通り、生物学的な「客観的知識」によれば、宇宙や歴史と人間存在の関係には、何らの目的論的な説明概念は存在しない。
「<人間>は、ついに古来の夢から目ざめて、みずからの完全な孤独を、みずからの根元的な異様さを発見するはずである」
モノーは極めてニヒリステックに、こうした絶望的な苦悩と不安に耐えながらも、あくまでも自己を超克・超越していくことが必要だと主張するのだ。
人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだと主張する一方で、「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである」と。
形而上学的真理に代えて科学的真理を対置し、それに当時フランスで一世を風靡した実存主義を接ぎ木する。
これがモノーの言わんとしたことだろう。
しかし、宗教や道徳などの様々な価値をおしなべて無知蒙昧に満ちた虚偽のイデオロギーとして頭から否定することが果たして妥当なのか?
例えば、「死」の概念を単に個体の生物学的な消滅に留めず、共同体的に包摂する様々な物語は、キリスト教的な神学体系だけでなくあらゆる文化のなかに存在する。
「われわれは、何か説明をつけずにはいられない気持ちと、胸苦しい不安に駆られて、実存の意味を否応なしに捜し求めようとしているのであるが、おそらくこれらは遺産として受け継いだものなのであろう。
この胸苦しい不安こそ、すべての神話、すべての宗教、すべての哲学、そして科学そのものを創造したのである」
こう語るモノー自身、科学主義、客観主義の暗闇のなかで不安におののいていたのではないか?
しかしモノーは、たとえどのような実存的不安であろうとも、科学的真理の探究のために必要ならば引き受けるべきだと考えた。
彼のパラダイムは実は、科学至上主義ともいうべき20世紀文明そのものだったのだ。
しかしそれが完全に行き詰っている今、そもそも真理とは何であり、科学は誰のために存在するのかをより根源的に問いかけることが求められている。
形而上学的な一元論や歴史主義的宿命論を止揚するのは、人間がより自由で豊かな精神世界を生きたいと願うからだ。
科学的真理のために進んで棘の道を歩む殉教者の道をあえて進もうとする人はほとんどいないはずだ。
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