Review
ジャツク・モノー『偶然と必然』 現代生物学の名著が探る生命の深淵(3)
生物の進化は偶然性の連続
ダーウィンが『種の起源』で進化論を提起する以前、ヨーロッパではキリスト教的世界観、人間観が支配的だった。
この世界は神の創造したものであり、生物も人間もすべての存在は自ずから神の意志、目的に沿ったものとして意味付けられていたのだ。
当然にも、様々な動植物が存在する自然界のピラミッドにおいて最高位に位置するのが人間存在であり、人間が他の生物と異なって人間である所以は、神によって与えられた、デカルト的な精神(=生得観念)をもっているからとされた。
こうしたキリスト教的世界観においては、歴史は「神の王国」へと至る進歩と発展のプロセスであり、明確な合目的性を有したものとして考えられたのである。
生物学を含む近代自然科学は、こうした目的論的なキリスト教的世界観、歴史観を否定し、自然を「客観的」に観察し、それを拷問(実験)にかけるところから出発したはずだ。
しかしモノーはこう指摘する。
生物学を突き詰めていくと、生物の強固で恐ろしいまでによく統合され、組織された合目的性を認めざるを得なくなると。
「科学的方法は、《自然》は客観性をもっているという当然の仮定の上に置かれている。つまり、ある現象を最終原因すなわち《目的》の面から解釈することで《真実》の認識に到達できるという考えを、否定しようという体系なのである」
「しかしながら、われわれはまさに客観性の示すところによって、生物のもつ合目的的性格を認めざるをえないのであり、生物がそれぞれの構造と性能とをつうじてなんらかの目的を実現し、かつ追求しているのを認めざるをえない。したがってそこには、すくなくとも外見上、深刻な認識論上の矛盾がある。生物学の中心的問題はまさしくこの矛盾そのもの」
モノーは「酵素とウィルスの合成の遺伝的制御の研究」でノーベル医学生理学賞を受賞したが、彼は酵素などの高分子タンパク質が遺伝情報の伝達の際に果たす役割について専門的に研究したようだ。
そこから彼は、生物における最も根本的な合目的計画とは、種の特徴をなす不変性の内容を世代から世代へと伝達することだと考えた。
こうした彼の見解は生物学者としての彼の研究から導かれ、かなり実証的に説明されている。
研究を通じて彼は、「自分自身をつくりあげる機械」である生物に関して次のような見解に達した。
「タンパク質こそは、化学機械の活動を一定の方向に導き、首尾一貫した機能を果たさせ、そしてその機械自身を組み立てるものなのである。これらの合目的的性能は、突きつめれば、すべてタンパク質のもつ≪立体的特異性≫にもとづくのである。
それは、タンパク質が、他の分子(他のタンパク質をも含めて)をそれぞれの形――その形はそれぞれの分子構造によって決定されている――で≪認知≫する能力なのである。これは文字どおり、微視的な識別(≪認識≫とは言わないにしても)能力なのである。
ある生物の合目的的な働きや構造はすべて、それがいかなるものであれ、原則として、一個、数個、あるいは非常に多数のタンパク質の立体特異的な相互作用に帰せられると言ってよい」
モノーによれば、遺伝子情報の伝達やそれに基づく細胞の形成などの生物の生命活動は、酵素タンパク質によって引き起こされている数千の化学反応だ。
この化学反応は、タンパク質相互が二個ないし数個の原子が電子軌道を共有することによって生ずる共有結合(厳密な意味では、これが化学結合といわれるものだ)によるものではなく、タンパク質と塩基の結合などによる立体的特異性(つまり凹凸による結合=非共有結合)を根拠とする。
そしてこの非共有結合をつくりだすタンパク質の構造は、遺伝子の構造だけによって自由に、恣意的に指定されている。
アロステリック相互作用と呼ばれる、こうした非共有結合にもとづく分子相互間の作用をこう解説する。
「アロステリック・タンパク質というのは、化学親和力のない化合物の間に、プラスにせよマイナスにせよ、とにかく相互作用を可能にし、その結果、どんな反応も、その反応に化学的に無縁で無関係な化合物を使って自由に制御できるようにされた、分子≪工学≫の独特な産物のひとつ」
「このような系の無根拠性そのものが、分子進化の探求と実験にほとんど無限の分野を開いている」
様々な凹凸を持った様々なタンパク質分子の結合は、非共有結合であるがゆえに一方で驚異的な複製の効率(必要とされる活性化エネルギーが小さい)を可能とし、なおかつ物理的な偶然による無限のバリエーションが可能だ。
生物の生命活動の驚異的なエネルギー効率の良さと、多様な生物種の進化という生物の特性は、本質的にはこうした分子工学上の特性に負っているとモノーは考えたのである。
ゆえに進化のプロセスでは、情報の不可逆性が存在する。
ある生物種が外界との関係でなんらかの必要性に基づいて生物学的特性を獲得していくのではなく、単なる分子工学上の偶然にすぎない遺伝情報の伝達ミスと、間違った情報であろうとも物理的には忠実に複製を行うこれまた分子工学上の理由によって進化が起きるわけだ。
偶然が生み出した「新たな種」が環境との関係で淘汰されるにしても、それを生み出す根拠は「純粋に単なる偶然、すなわち絶対的に自由であるが、本質は盲目的である偶然があるだけ」とモノーは主張する。
そして生命活動と進化に関するこの概念こそが、哲学的大問題を突き出す。
「あらゆる科学分野のあらゆる概念のうちで、もっとも根本的に人間中心主義を破壊するものであり、合目的性を強く信じてきたわれわれ人間という存在にとっては、本能的にもっとも受け容れがたいもの」
不変的複製という生物の合目的的性格は、何らかの普遍的な「目的」によるものではなく、物理的なメカニズムに基づく盲目的な偶然性に依拠している。
こうした概念は、これまでのあらゆる宗教やイデオロギーを根底から脅かすもので、そのなかにはマルクス主義も含まれる。
これこそモノーがマルクス主義の修正ではなく、その全面的廃棄を求めた根拠だ。
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