Review
ジャツク・モノー『偶然と必然』 現代生物学の名著が探る生命の深淵(1)
現代生物学が投げかけた問い
副題に「現代生物学の思想的な問いかけ」と記されたジャツク・モノー著『偶然と必然』(みすず書房)。
1970年にフランスで刊行されるやいなやベストセラーとなり、生物学の領域だけでなく、哲学界や宗教界をも含めた一大論議を巻き起こした現代生物学の名著だ。
1965年に「酵素とウィルスの合成の遺伝的制御の研究」でノーベル医学生理学賞を受賞したモノーは、現代生物学における当時の専門的な知見を駆使しつつ、科学やイデオロギー、そしてより根本的には人間存在そのものへの深い哲学的洞察を行った。
タイトルの「偶然と必然」は、古くて新しい極めて哲学的なテーマだ。
モノーは本書で、歴史主義的な必然論や宿命論を止揚する方向性を模索している。
「序」においては次のように強調する。
「私が信じているように、あらゆる科学の究極の野心がまさに人間の宇宙に対する関係を解くことにあるとすれば、生物学に中心的な位置を認めなければならなくなる。というのは、あらゆる学問のうちで生物学こそ、《人間の本性》とは何かという問題が形而上学のことばを使わないでも言えるようになるまえに、当然解決されていなければならないような問題の核心に、最も直接的に迫ろうとするからである」
いうまでもなく、「生物学的にいって人間存在はいかなるものなのか」という論争は、ダーウィンの『種の起源』での進化論の提起以降、一世紀半近くにわたって繰り広げられてきた。
モノーが語るように、「《人間の本性》とは何かという問題が形而上学のことばを使わないでも言えるようになる」ことの意味は大きい。
かって社会主義を掲げたソ連邦では、ミチューリン生物学をもとにしたルイセンコは、生物学を特定のイデオロギーと無理矢理結び付ける誤りに陥った。
モノーはこうした誤りに陥らないために、人間存在を根底において規定している生物学的な経験的事実、経験科学を基礎にして問題を考えるべきだと主張する。
ちなみに、モノーの経歴について簡単に触れておくと、1910年にフランスで生まれ、第2次大戦時中はレジスタンス運動を指導する左翼の闘士だった。
しかし硬直化したソ連邦とそこで信奉されるイデオロギーに絶望してか、本書では次のように語っている。
「社会主義の唯一の希望は、一世紀あまりそれを支配してきたイデオロギーの単なる《修正》というようなことではなく、それを全面的に放棄することである」
当然にも当時の左翼陣営からは激しい批判を浴びたようだ。
現代生物学の学問的成果を踏まえ、弁証法的唯物論を基にした歴史的必然論を説く社会主義イデオロギーは根本的に揚棄せざるを得ないと主張する本書の内容は、現実に社会主義が崩壊した今日でも十分に検討に値する。
ただし彼がノーベル医学生理学賞を受賞したのは1965年である。
40年前の彼の知見は、日進月歩の科学の発達のなかで、今日では完全に過去の遺物となっているかもしれない。
しかし、モノーが発した根底的な問いそのものは、人類にとっては永遠のテーマになるはずだ。
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