Essay

ヒトゲノム解析が生命倫理学に突きつける課題(2) 

2009年6月18日 08:30 | コメント(0) | トラックバック(0)

人類は滑り坂を落ちるのか?

 「ヒトゲノム解析計画」が進捗する只中の2000年8月28日付朝日新聞に、「人類滅亡防ぐため科学技術に制限を」とのショッキングな見出しの記事が掲載された。

 「インターネットのエジソン」とも呼ばれるコンピューター技術の立役者の一人であり、サン・マイクロシステムズの創設者でもあるビル・ジョイが、アメリカのコンピューター文化誌である「ワイアード」で2000年春に発表したエッセー「なぜ未来は我々を必要としないのか」が国際的な反響を呼んでいることを伝えたものだ。

 このエッセーでビルは、2030年には現在の百万倍の能力を持つだろうと予想されるコンピューターの急速な進歩により、遺伝子工学、ナノテクノロジー、ロボットの三分野において人類を滅ぼしうるような危険な技術を誰もが手に入れられるようになると警鐘を鳴らした。

 現在なら1000年かかる計算がたった8時間で、一生かかる計算がわずか30分で可能にになった時、人類の状況はどうなるのか?

 「乗客全員がいつでも『墜落ボタン』を押せる状態で飛んでいるジェット機」

 こう表現した上で、次のように提案した。

 「技術がもたらす結果をあらかじめ評価して、これ以上進むと危険だと判断したら、知の探求はそこでやめる、技術情報の公開にも一定の制限が必要」

 ビルのこうした提案は、彼自身が技術革新の中心的な担い手であるがゆえに大きな反響を呼んだ。

 実は同様のテーマは、遺伝子解析、遺伝子治療の進展と共に生命倫理学において「滑り坂論」として議論されてきた。

 「ヒトゲノム解析計画」は、生命倫理学に新たな課題を突きつけているのである。

 「ヒトゲノム計画の倫理的側面の研究」で注目すべきは、京都大学大学院文学研究科倫理学研究室のホームページに掲載されている日本医科大学の黒崎剛の「滑り坂論」に関する論考だ。
 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/genome/genome95/32kurosaki.html

 黒崎は、「『遺伝子治療滑り坂論』は誤った批判か?」と題して論議を進め、「生命・遺伝子操作に適用された『滑り坂論』の意味を捉えるために」は、論理的整合性だけにこだわらず、医療の現場から「滑り坂論」の社会的意味(彼はそれを存在論的滑り坂論を呼んでいる)を考えるべきだと提起する。

 「もし最初の一歩を踏み出せば、次々にそれに続く過程に巻き込まれ、徐々に(あるいは一気に)悪しき結果に落ち込んでいくことを避けられない」と考える「滑り坂論」(slippery slope argument)は、論理学上は誤謬論理の一つとして扱われてきた。
 しかし現代における「滑り坂論」は、論理的整合性のみで評価できないと黒埼は指摘する。

 「今日の滑り坂論は生命操作技術の応用が存在的・倫理的に『取り返しのつかないおそるべき結果』を生むと予想し、その技術の開発・適用を差し止めるか、適用の仕方を変更させるか、遅らせるかすることを狙って提起される反対論という意味合いを持っている」

 「それが科学技術の発展を理解しないことから起こる擬似対立であり、啓蒙によって防ぐことができるとしか考えないならば、原子力発電において大衆と和解しがたい対立に陥ってしまった動燃技術者たちの失敗の大愚を繰り返すことになろう」

 「百年前の倫理学者がこう言ったとする、人間は何万人もの人間を一気に殺すことのできるエネルギーを開発するだろうが、我々はそれを無意味な大虐殺に応用することを阻む道徳的枠組みを持っている、心配することはない、と。百年前の滑り坂論者はそのような道徳的枠組みには現実には期待できないことを主張するだろう。どちらの可能性が実現したか我々は知っている。そのエネルギーは人間の理性によって制御され、かつ虐殺にも応用された。どちらも正しかったかも知れないが、滑り坂論者の方に分があることは確かだろう」

 滑り坂論を単に論理的に批判することには意味がないとした上で、黒崎は続ける。

 「一般に科学技術の性格は倫理的に中立であり、その正用、悪用は人間によるその応用の仕方の問題である、とよく言われるが、それは科学技術はそれが応用される際にどのような条件がそこに存在しているかによって大きく存在形態が変わるという『根拠』としての存在性格を持っているからである」

 つまり遺伝子操作などの先端科学技術が人類を滑り坂に陥れるかどうか、それは当該社会の有する社会的条件、状況に大きく左右される。

 ゆえに滑り坂に陥ってしまうような社会的状況においてはどうなのか?

 「それらの条件を排除すること、排除できない場合には技術の全面適用を差し控えることが合理的である」

 問題は科学技術そのものではなく、私たちが生きる社会の有り様なのだ。


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渡瀬義孝 2008年洞爺湖サミットの開催に合わせ自転車で東京~洞爺湖~札幌1500キロを走破したツーリング洞爺湖に参加。持続可能な未来へ向けエコロジーでリベラルなライフスタイルを! yoshitaka@ihope.jp

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