Essay
ヒトゲノム解析が生命倫理学に突きつける課題(1)
遺伝子ビジネスが始まっている
1990年10月に開始された国際的プロジェクト「ヒトゲノム解析計画」によって、ヒトの全DNA(ゲノム)のほとんどは解読され、その結果が公表された。
2000年6月にはヒトゲノム全体の約90%にあたる27億塩基のドラフトシーケンス(概要版)が発表され、2003年4月にほぼ全部の塩基配列が決定されたのだ。
こうした研究成果によって、既にDNAによる親子鑑定や遺伝性疾患検査はビジネスとして公然と始まっている。
インターネット上ではDNA親子鑑定を数十万円前後で行う企業のホームページが閲覧でき、DNA鑑定や遺伝子治療は私たちの生活のなかに着実に入り込んでいる。
これまで対処療法を主にしてきた病気の治療が遺伝子治療による予防医学に置き換わり、あらゆる病気を撲滅する人類の夢が実現されるのもそう遠くはない。
こんなオプティミズムに満ちた意見も存在するが、同時に「神の領域」とされてきた遺伝子の操作にいよいよ人類が踏み込んでいくことへの不安や懐疑の声も挙がっている。
遺伝現象を担う物理的な単位は遺伝子であり、その化学的な物質がDNA(デオキシリボ核酸)だ。
ゲノムとは、ある生物をつくるのに必要な遺伝情報物質(DNA)の全体(あるいは一セット)のことで、ヒトゲノムは人体の細胞中に存在する四六本の染色体にある遺伝情報物質の全体のことを指す。
DNAには遺伝情報がA(アデニン)、C(シトシン)、G(グアニン)、T(チミン)の四種類の塩基配列として印されており、その情報量はゲノム当り約30億塩基対という膨大なものだ。
「ヒトゲノム解析計画」では、1~22番までの染色体と、X,Y染色体のなかにある塩基対を解読した。
その情報総量はマンハッタンの電話帳(千ページ)で200冊分、コンピュータに記憶させる場合でも基本情報だけで3GB分近い。
30億という膨大な塩基配列を読み解く作業は、一国ではとても無理であるがゆえに国際協力によって行われた。
一方で、民間のセレラ・ジェノミックス社は、300台の読み取り装置と効率的なゲノム配列解読法によって、1999年9月に解読を開始して、わずか1年たらずでヒトゲノム配列をほぼすべて読みおえ、2000年4月に国際ヒトゲノム計画チームに先んじるかたちで、ヒトゲノム配列の解読終了を宣言した。
セレラ・ジェノミックス社がいち早く解析を終えたのは、「ヒトゲノム解析計画」によって明らかとなった情報を利用した上での話だ。
しかし同社は解読した塩基配列を次々と特許申請し、遺伝子情報をめぐるビジネス競争が開始された。
全ての塩基配列の読み取り(シークエンシング)が完了しても、各国で分担したことでバラバラとなっている情報をつなぎ合わせて、どこにどのような遺伝子が存在するかの地図づくり(マッピング)が行われ、さらに各遺伝子がどのような働きをしているのかを解析しなければならない。
既に遺伝子の異常で生じる遺伝病は5710種類(1994年現在、単因子病のみ)が解明され、鎌形赤血球貧血病などの世界の有名な10大遺伝病に限れば、その原因遺伝子はすべて解明されている。
加速度的に進捗するヒトゲノム解析によって人間の設計図が全て明らかにされれば、あらゆる疾患の原因遺伝子が解明できると考えても不思議はない。
既にアメリカでは、健康保険や生命保険の加入や、就職をめぐってこうした遺伝子検査の影響が論議されている。
ガンや白血病など、重大な疾患をもたらす原因遺伝子が解明されれば、生命保険会社などは遺伝子調査を義務づけ、こうした疾患の発生リスクが高いと考えられる被保険者について、加入を拒否したり掛け金を高くしたりする可能性がある。
こうした危険性に考慮し、ヨーロツパ議会は1989年に「遺伝的な基準に基づく労働者の選別を法的に禁止する」ことを決議し、1992年には「保険会社による遺伝学的情報の利用の全面的禁止」の提案が勧告された。
遺伝子検査の際にはインフォームド・コンセントが充分に行われるべきであり、検査を行うかどうかはあくまでも本人の自己決定権に委ねるべきだ。
その情報もプライバシーとして厳格に保護されるべきだろう。
その上でより本質的な問題は、遺伝子検査なり遺伝子治療、遺伝子操作の是非そのものにある。
「神の領域」への踏み込み方をどう規制するかと同時に、そもそも「神の領域」へ踏み込むことが許されるのかどうかについての倫理学的な検討がなされるべきなのだ。
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