Review
アイザィア・バーリン『自由論』が論じた消極的自由と積極的自由(2)
形而上学的合理主義は圧政を生む
かつてのソ連邦のようなスターリン主義国家のみならず、「自由と民主主義」を標榜している社会においても、なにゆえ権威主義的な一元論が支配的となりつつあるのか?
バーリンは1953年にロンドンで行った講演記録「歴史の必然性」のなかで、「一般に現代思想において二つの強力な主義・学説は、相対主義と決定論である」と指摘し、この二つの主義・学説の持つドグマに対して自覚的にならなければならないと強調した。
「歴史が法則─自然的であれ、超自然的であれ─にしたがい、人間生活のあらゆる出来事がひとつの必然的なパターンの一要素であるという観念は、深い形而上学的な起源をもっている」
そして形而上学は次のような誤りを犯す。
「存在することと価値をもつこと、存在することと役割をもつこと(そして多少なりともうまくその役割を果たすこと)とは、同一事」
この誤りは、実存主義者でありながらも、「自由とは必然の洞察である」と述べたサルトルも陥った。
最も概念的(理性的)に歴史を捉えることが、歴史の生成過程の法則を見出すことと同一視されてしまえば、歴史はより合理的、理性的な方向でなんらかの目的論的な必然性を有しており、人間の諸活動は個人の主観的意志や意図に関わりなく、それらの必然性のなかに規定されているとの決定論に陥ってしまう。
「合理的組織化の所産として幸福が実現される可能性(ないし蓋然性)に対する信念は、イタリア・ルネサンスの形而上学者からドイツ啓蒙の進化論的思想家まで、革命前のフランスの急進派および功利主義者から19・20世紀の科学崇拝的夢想家まで、近代の慈恵の念にあついすべての賢者たちを統合するものである」
しかし「自由とは必然の洞察」であるとすれば、より合理的組織化のためとの大義名分のもとに、個人の自由は脅かされてしまう。
こうした問題意識から、バーリン独特の「自由」に対する洞察が生まれる。
1958年にオックスフォード大学で行った講演「二つの自由概念」のなかで、バーリンは決定論的陥穽から人間の自由を守るためには、「積極的」自由を要求するだけでは不十分であり、「消極的」自由こそが重要であると主張する。
ここで彼が語る二つの自由概念とはどのようなものなのか?
「自由という言葉(わたくしはfreedom もlibertも同じ意味で用いる)の政治的な意味の第一は─わたくしはこれを『消極的』negativeな意味と名づけるのだが─、次のような問いにたいする答えのなかに含まれているものである。
その問いとはつまり、『主体― 一個人あるいは個人の集団 ─が、いかなる他人からの干渉もうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放任されている、あるいは放任されているべき範囲はどのようなものであるか』。
第二の意味─これをわたくしは『積極的』positiveな意味と名づける─は、次のような問い、つまり『あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、まただれであるか』という問いに対する答えのなかに含まれている」
バーリンは、決定論という形而上学的合理主義は、必然的に次のような観念を含むと考える。
「障害物のない境域、自分のやりたいことのできる空虚な場所という『消極的』な自由の観念ではなくして、自己支配ないし自己統御という〔『積極的』な自由〕の観念」
そこでは非理性的なこと、愚かしいこと、あるいは悪いことをする自由(ミルであるならば、これも「愚行権」として認める)はすべて否定される共に、経験的な、つまり即自的な自我を正しい範型へと押しこめることは圧制ではなくして人間性の解放だとの信念が生まれる。
「自由はかくして、権威と両立しがたいどころではなく、実質的にそれと同一のものとなる。これが、十八世紀におけるすべての人権宣言の思想・言葉であり、また社会を賢明なる立法者の、自然の、歴史の、あるいは神の理性的な法によって構成・設計されたものとみなすすべてのひとびとの思想・言葉なのである」
勿論バーリンは、「積極的」自由をすべて否定しているわけではない。
自由の問題を考察するには二つの概念が必要であり、この二つの自由の持つ意義の違いを理解し、その時代や社会状況のなかで必要とされる両者のバランスは変化するとしても、少なくとも一方が片方を無自覚に蹂躪するようなことのないように留意しなければならないと強調するのだ。
バーリンは、形而上学的な傾向、決定論的な傾向は、「積極的」自由という名において個人の抑圧を生み出してきた歴史的事実と向き合おうとしたのだ。
「消極的自由と積極的自由とが、どれだけ共通の基盤の上に立っているにせよ、またどちらがより重大な歪曲を受けやすいにせよ、ともかく同じものではないということである。
二つはいずれもそれ自体目的なのであり、従って、この二つの目的は決定的に衝突もする。
衝突した場合には、選択・優劣の問題は嫌でも起こらざるをえない。デモクラシーは、所与の状況では、個人の自由を犠牲にしても進められるべきであろうか。
あるいは、平等は、芸術上の業績を犠牲にしても、恩恵は正義を犠牲にしても、自発性は効率を犠牲にしても、幸福、忠誠、無邪気は知識と真理を犠牲にしても進められるべきであろうか。
私が立証しようとしている点は、ただ、究極的な諸価値が宥和できないときは、明快な解決法は原則的にありえないということである」
正義、進歩、未来の世代の幸福、神聖なる使命、国民・民族・階級の解放、さらに自由そのものなどの積極的な価値が、最後には互いに矛盾することはなく、むしろ相互に必要としあうだろうとの決定論的で一元論的な信仰は誤っている。
「われわれが日常的経験において遭遇する世界は、いずれもひとしく究極的であるような諸目的─そしてそのあるものを実現すれば不可避的に他のものを犠牲にせざるをえないような諸目的─の間での選択を迫られている世界である。
事実、このような状況であればこそ、人間は選択の自由にひじょうに大きな価値をおいているのである」
「何よりもまず、教育のあれこれの方法とか、生活を科学的、宗教的、あるいは社会的に組織した体制とかが解決を約束しているような種類の問題は、事実上人生の中心問題ではないことが実感されねばならない。
不正、貧困、隷従、無知─これらは改革や革命によって救済されるかもしれない。
けれども人間は悪と戦うことだけで生きているのではなく、個人的集団的な積極的目標によって生きているし、それはたいへんさまざまであって、まずあらかじめ見通すわけにも行かないし、時としては相互に両立しないものなのだ」
では、私たちはどう生きていけばよいのか?
バーリンの次の言葉は示唆的である。
「自己の確信の正当性の相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である」
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